「全員が俺みたいになったら困る」──蛭子能収が語る、若者の“蛭子化”
「理想のお父さん」だった時代も
戦後まもない1947年生まれの蛭子は長崎商業高校を卒業後、地元の看板屋に就職。22歳の時に全財産4万円で上京し、73年に雑誌『ガロ』で漫画家としてデビュー。ちり紙交換や清掃会社の営業マンなどをしながら、独り立ちのチャンスをうかがった。 過激で不条理な作風が徐々に評価され、81年から漫画家に専念。その後、柄本明主宰の劇団東京乾電池の舞台出演をきっかけに、87年に『笑っていいとも!』(フジテレビ系)で初めてテレビに登場。90年には『いつも誰かに恋してるッ』(同系)で宮沢りえの父親役を演じ、雑誌の『理想のお父さん』調査で1位に輝くなど高い好感度を誇った時期もある。 しかし、90年代中盤になると、『スーパーJOCKEY』(日本テレビ系)でダチョウ倶楽部や松村邦洋と同じように裸で熱湯風呂に入り、イメージが急変。01年1月のネットアンケートでは「日本は神の国」「イット革命」などの失言で支持率10%台に落ち込んでいた森喜朗首相(当時)を2位に抑えて、「許せないオヤジ」で1位になった。テレビからの印象で安易に判断する世論をどう感じていたのか。 「やっぱり、よく書かれたほうが嬉しいです(笑)。でも、そこまで気にしないですね。人の考え方を変えるなんて、無理ですから。日本は何を言っても自由。それが守られていて、よい国だなと思います」
やっぱり競艇で当てたい……
自由奔放に見えて、律義な面もある。太川陽介のライブにはチケットを自腹で購入して訪れた。ファンからの年賀状にも返事を出す。厳粛な雰囲気が苦手なため、葬儀には出席しないと伝えられているが、最初にテレビ出演のオファーをしてくれた横澤彪氏(元フジテレビプロデューサー)の通夜、映画で共演した長門裕之の告別式などには参列した。 「太川さんのライブは見ておかないとマズいかなと思って。まあ、場所が事務所から近かったですし。年賀状は全て返すわけではないですけどね。送るのは、だいたい6月くらいですよ。面倒くさくて(笑)。でも、もらうと嬉しいですからね。葬式に出ると、笑ってしまう癖があるんですけど、その時は大丈夫でしたね」 傍若無人なイメージとは異なり、ディレクターの指示には素直に従う。漫画の締め切りは必ず守る。かつて、テレビ局でプロデューサーや冠番組を持つ大御所に擦り寄っていくタレントを目の当たりにした際には、「向こうから『アイツ面白いなあ』と近づいてもらえる人間にならないとダメですよ」と本質的な指摘をした。仕事に対して真摯に取り組み、付和雷同しない姿勢を貫いてきたからこそ、生存競争の激しい芸能界で30年以上も一線にい続けているのだ。最後に、今後の夢を尋ねた。 「とにかく競艇で当てたいですね。『バス旅』は体力的に厳しくてやめたけど、ゆるい感じの旅番組のオファーがきたらまたやりますよ。でも、太川さん、怒ると怖いんだよな(笑)」
蛭子能収(えびす・よしかず)
1947年10月21日生まれ。長崎県出身。70年代後半、自動販売機専門雑誌の連載をきっかけに漫画家として頭角を現す。86年、劇団東京乾電池公演『台所の灯』に初参加。89年、『教師びんびん物語II』(フジテレビ系)でドラマデビューを果たし、以降タレントとしても人気を誇る。新刊『死にたくない 一億総終活時代の人生観』(角川新書)発売中。