基満男は高木豊を起用した関根潤三に憤慨 「ポジションというのは与えられるもんじゃない。奪うものだよ!」
【基と高木の運命を分けた83年開幕戦】 前掲書によると、83年開幕戦において基は「一つのつまらないミスを犯す」と書かれている。さらに、「そしてこのミスが、二人の男の運命を決めることになる」と続いている。 結論から言うと、この試合で基は平凡なフライを捕球することができずに走者を許してしまったのだという。記録はヒットではあったが、そのプレーを見て、「基の衰えを感じた」関根は、翌日の試合から高木をレギュラーとして起用することを決めたのだという。基の口調がさらに強くなる。 「記憶にない。ただ、この頃、ファウルフライを追いかけていて追いつくことができなかった。それはすごく記憶にあるね。『捕れる』と思ったボールに追いつけなかった。その時に、『これは危ないぞ』と、自分の衰えを感じたことはあったけど、開幕戦のその打球のことは覚えていないね」 一方、当の高木豊による発言は異なっている。自身のYouTube『BASEBALL CHANNEL』、2021(令和3)年1月17日付において、前年の関根の死を悼みつつ、83年についてこんな発言を残している。 「オープン戦、全試合使ってくれたのね。で、開幕も当然、オレが行くと思っているわけじゃない。だけど使ってくれないわけ。『えっ、代打もないの?』みたいな。何も説明がない。もう頭にきて、その夜は寝れなくて......」 しかし関根は、翌日の練習中に高木のもとに行き、こんな言葉を告げたという。 「その時に関根さんが後ろに来て、『豊、おまえをこれから全試合使っていく。その代わり、開幕はベテランに譲ってくれ』と。『ずっと使っていくうえで、基に対して顔向けができるような成績を残せよ。それがおまえの今年の仕事だ』って言われて」 さらに、こんな言葉も残している。 「基さんは、あいさつもしてくれなくなってね......」 こうしたやり取りがあったからこそ、高木は今でも関根に感謝し、基は今でも承服しかねる思いを抱いている。関根の自著に書かれていることと、高木の証言は異なっている。しかし、基は「初めから豊を使うつもりやったんだろう」と考えている。だからこそ、彼は今でもこの時の関根の判断に納得していない。 「もう一度言うけど、ポジションは与えられるものじゃなく、奪うものやろ。平等に競争させてもらいさえすれば何も言わん。だから今でも納得してない。それが、オレの正直な思いっちゅうことだよ。もちろん、関根さんの考えもわかるけどね。先行き短いベテランよりも若手を育てなければいけない。それは監督ならば当然のことだよ。でも、そこには競争がなければいかん。ポジションは与えられるものではないんだから」 基の口調は、さらに強くなっていた。 後編につづく>> 関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82~84年に大洋(現DeNA)、87~89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。2003年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。 基満男(もとい・みつお)/1946年11月10日、兵庫県出身。報徳学園から駒澤大(中退)、篠崎倉庫を経て、67年ドラフト外で西鉄(現・西武)に入団。好打と堅守を武器におもに二塁手として活躍。72年にはプロ6年目で初の3割となる打率.301、20本塁打、盗塁25を記録し、ベストナインを獲得。その後、太平洋、クラウンを経て79年に大洋(現・DeNA)移籍。80年にはキャリアハイとなる打率.314を記録し、ダイヤモンドグラブ(現・ゴールデングラブ賞)とベストナインに輝いた。84年限りで現役を引退。通算1914試合出場で1734安打、189本塁打、672打点、打率.273。引退後は解説者や指導者として活躍した。
長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi