朝ドラ『らんまん』脚本家・長田育恵の創作原点「井上ひさし先生の教えを支えに、脚本を書き続けて。今、ようやくスタートラインに立った」
◆井上ひさしさんの《個人研修生として》 その会社は3年で辞め、イベントホールの副支配人や早稲田大学の演劇博物館などで働きながら脚本を書いていましたが、なかなか道が開けません。そろそろ20代も終わりを迎える頃、ゼロから勉強しようと思い、日本劇作家協会の戯曲セミナーに参加しました。数ある劇作家の講義のなかで一番感銘を受けたのが、井上ひさし先生のお話でした。 井上先生は、「自分は劇の中に詩を書き込む」とおっしゃる。先生いうところの詩とはポエムではなく、人生で一度しかないような、その人の命が輝く瞬間のこと。人が生きることの美しさや、人の営みの強さなどを、演劇を通してお客様に手渡したい。 そして劇場から帰る時には、「明日はいい日になりそうだ」と信じられる心持ちになってもらいたい。「だから人が人生で一度だけ言うような、言葉に本当の意味が宿る瞬間を、必ず劇の中に書き込みなさい」と。心に突き刺さりました。 卒業制作は井上先生に提出し、翌年1年間、先生の《個人研修生》として過ごすことに。いわば「追っかけをする権利」を公式に与えられたみたいな感じです。地方で先生の講演会があれば自分で新幹線のチケットを買い、講演会の始まる前に控室で同席してお話をさせていただく。 劇場の物販のスペースで先生が本にサインをしている間に、「この前のあなたの脚本なんだけど」と突然アドバイスをいただいたり。それを必死に頭に叩き込んで、舞台の幕が上がる直前までメモに書き留めたものです。創作者の姿勢や居住まいも間近で見ることができました。 先生は作品に取り掛かる前に、膨大な量の資料に目を通します。でもそれは、本に書かれたことを戯曲で使うためではなく、「書かれていないこと」を書くための準備なんですね。先生の膨大な蔵書を見て、私も生半可な覚悟では書けなくなりました。
◆今ようやくスタートラインに 戯曲というものは、舞台で演じられて初めて世の中の人に知っていただけます。そこで自分の戯曲を上演するために、劇団を立ち上げました。芝居を打つにはお金もかかります。3作品上演した段階で、会社員時代の貯金が底をつきました。(笑) 私は江戸川乱歩や、民俗学者の宮本常一(つねいち)、民藝運動の提唱者・柳宗悦(むねよし)など、実在する人物に想を得た作品を何作か書いています。また、敗戦後に朝鮮半島にとどまらざるをえなかった日本人女性たちを描いた作品もあります。 なぜそうしたテーマに取り組むのか。ひとつには同居していた母方の祖父の存在があります。祖父は私が中学生の時に亡くなりましたが、祖父と母は折り合いがあまりよくなく、私もなんとなく近寄りがたかった。祖父は満洲(現・中国東北部)にいたことがありますが、話を聞こうとしても、一切話してくれませんでした。 祖父はなぜ、何も語らなかったのか。その問いかけは、自分が今生きている時代を確かめる土台にもなります。祖父を通してですが、戦争の気配を知っている最後の世代でもある私は、この問いかけに向かわなくてはいけない。そう思ったのです。 初めて書いた評伝劇『乱歩の恋文』は大正12年が舞台です。その年、関東大震災があり、日本人の価値観が大きく転換した。戦争への道に進む時期です。 井上先生は常に、後世の人に何を《渡す》か考えて作劇を続けてこられました。私はそれを受け継ぎたい。その思いから、自分が知っている祖父の背中みたいなものを書き留めるのが、初期のてがみ座のテーマでした。
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