多くの人の生活を支える「大事な仕事」ほど給料が安いという「厳しい現実」
「エッセンシャル・ワークの逆説」という難題
おそらく、そこで浮上してきたのは、『ブルシット・ジョブ』で前面にあらわれるよりは、その強力な文脈として作用していたテーマ、不要な労働ではなく、必要な労働というテーマです。 「エッセンシャル・ワーカー」が、その名の通り、この人類が生活をいとなんでいくにあたりもっとも基本的で必要不可欠であるにもかかわらず、労働条件において相対的に低劣におかれていることはたとえば、アメリカの経済政策研究所という労働組合のシンクタンクによる統計のまとめによってもあきらかです。 2020年5月の時点で、このレポートの著者たちは、コロナ禍のもとでのエッセンシャル・ワーカーが十分な医療や安全配慮を与えられずに働いており、その結果、死亡者が多数にのぼりつつある状況を指摘しています。 そのうえで、アメリカのエッセンシャル・ワークを12(食糧・農業、緊急サービス、公共交通・保管・配達業務、工業・商業・居住設備やサービス業、医療業務、自治体・コミュニティサービス、エネルギーなど)に特定して、それに従事するおよそ5500万人の労働者の賃金やジェンダー、組合組織率などを調査しています。 それによると、エッセンシャル・ワーカーの70%が非大卒。医療従事者における女性の割合は76%、それに対してエネルギー部門では男性が96%、食糧・農業や工業・商業・居住設備やサービス業の半数以上を非白人が占めています。その結果もあるでしょうが、給与も非エッセンシャル・ワーカーに対してエッセンシャル・ワーカーが低くなっています。 「エッセンシャル・ワークの逆説」は、ここからも確認できます。それでは、いったいどうしてこのようなことが起きているのでしょうか?どうしてこのようなことがさしておかしいともおもわれていないのでしょうか? この問題については、すでに2013年の小論の時点でこう提起されていました。再度、確認してみます。 ・とりわけ1960年代、自由時間を確保した充足的で生産的な人々があらわれはじめた(ヒッピームーヴメントのような動きもその一端でしょう)。この状況に支配階級は大いなる脅威を感じることになる。 ・それとは別に、わたしたちの社会のうちにはかねてより、労働はそれ自体がモラル上の価値であるという感性、めざめている時間の大半をある種の厳格な労働規律へと従わせようとしない人間はなんの価値もないという感性が常識として根づいていた。これは支配階級には、とても都合のよいものだった。ネオリベラリズムはこの感性を動員する。 ・その感性が、有用な仕事をしている人間たちへの反感の源泉にもなる。つまり、労働そのものが至上の価値であるならば、その価値観でもって働いている人間にとっては、それ以上の価値をもった仕事に就いている人間は存在そのものが妬ましい対象である。そしてその妬みを促進するのが、BSJに就いていることにひそむ精神的暴力である。 ・このようなモラルの力学が、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則を裏打ちする。 ・さらには、これを矛盾ではなく、むしろあるべき状態とみなすという倒錯がある。 こういった議論の構成です。ここから確認できるのは、 (1)労働はそれ自体がモラル上の価値であるという感性がある (2)それが有用な労働をしている人間への反感の下地となっている (3)ここから、他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が強化される (4)さらに、それこそがあるべき姿であるという倒錯した意識がある この逆説はこうした価値意識に根ざしています。人は労働に市場価値だけでなく社会的価値をもとめています。市場価値にすべて還元することはなかなかできません。ところがそれが社会的価値のある労働への反感の下地にもなっているのです。 つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。
酒井 隆史(大阪公立大学教授)