宮藤官九郎×大泉洋による特別ドラマの評価は? なぜクドカンのリブート作品が相次ぐのか? 『終りに見た街』考察レビュー
新也は何故ここまで軍国主義に染まってしまったのか?
本当にこんなことになるの?と疑問に思う人もいるだろう。特にニートで全てにおいてやる気がないように見えた新也だったが、ここにきて突然「理屈を捏ねる者はブン殴られる、多様性なんてクソ喰らえ、気持ち良いです」とまで言いだすのだ。 『不適切にもほどがある!』(TBS系、2024)でも『季節のない街』でもそうだが、クドカンは現代の“多様性”からこぼれ落ちてしまう人たちを描いてきた。新也もおそらくその一人であり、現代で生きづらさを抱えている人ほど、誰もが平等に自国の勝利のために尽くすことを求められる軍国主義に救いを求めてしまうのではないだろうか。 そうして一人ひとりが時代の空気に染まり、戦争へと突き進んでいた結果、多くの尊い命が失われた。ラストはなぜか1日早まった東京大空襲に太一が巻き込まれる。目が覚めると片腕を吹き飛ばされた太一の目の前に、崩壊した現代都市が広がっていた…という展開に。 思い返せば、太一がタイムスリップする直前、雷のような音とともに部屋の外がピカッと光る描写があった。おそらく、その時点で核爆弾が現代の東京に落とされていたのだろう。 その衝撃で太一たちは昭和19年にタイムスリップしたのかもしれないし、単に気を失っている間に見た夢だったのかもしれない。いずれにせよ、“その時”は本作のラストシーンのように唐突に訪れる。
現実の我々を反映した寺本
呆然とする太一のかたわらでは、スマホに地下シェルターからSNSを更新する寺本の呑気な声が聞こえていた。ちなみにこの寺本も本作オリジナルのキャラクター。 太一は昭和19年の日本で寺本にそっくりな憲兵を何度も目にするが、原作でも太一が実という愛想のいいクリーニング屋の青年に似た憲兵と遭遇する場面がある。そのことを受け、恐ろしさを覚えた太一が「あのクリーニング屋でも、戦争になって、ああした位置につくと、あんなふうに威丈高になるのか、と思った」と語るのだ。 おそらくこの実のキャラクターを膨らませ、現代風にアレンジしたのが寺本なのだろう。「愛想のいいクリーニング屋」は「SNSで世界平和を掲げる凡庸なプロデューサー」に変わり、外が焼け野原になっても地下シェルターからSNSを更新し続ける。それは世界各国で戦争が起きていても、自分の国だけは大丈夫と信じて疑わず、安全圏から他国の窮状を眺めているだけの私たち自身なのだろう。 爆弾で真っ黒焦げになった男は「今、何年ですか?」という太一の問いに「にせんにじゅう…」と答えたところで息絶える。202X年。その時は、もうすぐそこまで来ているというクドカンの危機感が現れていた。自身の作品で病気や自然災害など、時に理不尽に奪われる命を独自の観点から繰り返し描いてきたクドカン。戦争もその一つだが、それは私たち次第で回避できる。 『新宿野戦病院』(フジテレビ系)では戦争と同じようにコロナが風化し、同じ過ちを繰り返す人間の姿が描かれていた。最後にそんな同作から、小池栄子演じるヨウコの台詞を紹介したい。 「感染源はわからない。これだけは言える。運んだのは人間です。犯人探しは意味がない」 戦争というウイルスがすでに蔓延しつつある世の中の流れを私たちは止めることができるだろうか。 【著者プロフィール:苫とり子】 1995年、岡山県生まれ。東京在住。演劇経験を活かし、エンタメライターとしてReal Sound、WEBザテレビジョン、シネマズプラス等にコラムやインタビュー記事を寄稿している。
苫とり子