華厳滝で命を絶った明治期のエリート学生・藤村操の絶筆「巌頭之感」が与えた衝撃
■絵はがきブームの草分け まず注目したいのは、「巌頭之感」が撮影されたという事実だ。 1903年当時、カメラ技術はすでに全国に広がっており、各地で写真館が営業していた。ただ、趣味としての撮影が広がるのは1910年代に世界中でヒットした「ヴェスト・ポケット・コダック」の登場を待たなければならない。つまり、写真を残せる人材が相当に限られていた時代だった。 そうした中で地元の写真家がいち早く滝口に登って「巌頭之感」を撮影したのは、藤村の自殺のニュースバリューを見越してのことだったと思われる。
実際、事件は数日後に複数の新聞が報じられてたちまち全国区の話題となった。報道の中で「巌頭之感」も知られる存在となり、すぐに後追い自殺が多発したことから、1カ月もしないうちに行政の判断で削り取られている。自殺の名所の象徴となる絶筆をそのままにするわけにはいかなかったのだろう。後日、ミズナラ自体も伐採された。 しかし、すでにカメラに収められた「巌頭之感」の拡散をとめることはできなかった。写真を印刷した絵はがきは、観光土産として飛ぶように売れたという。
当時の新聞はまだ木版印刷が主流で、大判の写真が刷れる網版印刷が広がるのは日露戦争が始まる1904年以降のことになる。写真の価値をお金に換えるなら、絵はがきなどとして販売するのが合理的な時代だった。 ちなみに絵はがきの全国的な普及も、逓信省が1904年に日露戦争の「戦役記念絵葉書」を発行したことがきっかけで起こったといわれる。その後は観光名所だけでなく、事件や災害、騒動などを収めた写真を題材にすることが当たり前になった。「巌頭之感」の絵はがきは、その草分けといえるかもしれない。
■行政が販売停止に乗り出す 草分けと呼ぶにふさわしい反響を得たものの、流通は断続的でもあった。しばらくすると行政が販売停止やネガの回収に乗り出したためだ。やはり後追い自殺の問題が続いており、シンボルともいえる絵はがきの流通を抑える必要があったのだろう。 一方で売る側は絵はがきのストックや複製したネガを残しており、ほとぼりが冷めて販売が再開できる機会をうかがっていた。そうして再び売り出されては目立ち、目立ったら行政にストップがかけられるといったいたちごっこが繰り返された。