商売繁盛のコツは「売り手にならず買い手になること」 安田善次郎(上)
善次郎が心がけた「売り手にならず買い手になること」
開店に当たって善次郎が心がけたことは「売り手にならず買い手になること」であった。常に買い手の気持ちになって店を切り回していったから、電車も人力車もなかった時代でも銀行辺りから人形町まで鰹節や海苔を買いに来る客でにぎわった。 この分では鰹節・海苔専門店として大成する能力は十二分にあったが、善次郎は副業としてやっていた両替商のほうがもっと有望だとにらんだ。鰹節のほうは夫人に任せ、みずからは両替商に専念することになる。 安田善次郎といえば温厚篤実円満居士のように思われているかも知れないが、大変な強情ぶりが語り継がれている。東京電燈(現東京電力)が創立されて、東京ガスと大競争となり、しのぎをけずっていたころのこと。東電の采配を託されたとき、 「よし、分かった。そんなら現在の重役連中は全員退任してもらう。わしが新しい人材を配して空気を一新してみせる」と言い切った。 この時、全員退任したが、のちにビール王と称される馬越恭平だけは再選される。安田は全員退任を前提に東電の立て直しをやるという条件だからといってあくまで馬越の退任を求めた。馬越は怒って残留を画策するが、安田は応じない。 「ここに至って渋沢栄一、大倉喜八郎、大谷嘉兵衛らから恭平を説いて善次郎に譲らした。電燈会社の今日あるはけだし、善次郎の賜物なり」(実業之日本社編『実業家奇聞録』) 安田も強情だが、馬越も強情、ともに明治の気骨の持ち主といえる。=敬称略 ■安田善次郎(1838-1921)の横顔 1838(天保9)年、富山県出身、1857(安政4)年江戸に出て銭湯や両替商に奉公、1864(元治元)年独立して鰹節、海苔商兼両替商を始めた。1866(慶応2)年小舟町で安田商店を旗揚げ、貨幣市場に本格的に参入、30歳のとき、江戸両替組合の肝煎(理事)となる。1876(明治9)年第三国立銀行を設立、1894(同27)年衆議院議員に当選するが、1週間後に辞退、日清、日露両戦役、第2次欧州大戦を経て資産は大きく膨脹、1921(大正10)年凶刀にたおれる。