商売繁盛のコツは「売り手にならず買い手になること」 安田善次郎(上)
安田財閥の祖・安田善次郎は、現在のみずほフィナンシャルグループ、損害保険ジャパン、明治安田生命保険、東京建物などの礎を次々と築き上げました。もともとは富山の下級武士の家に生まれましたが、家出をした先の江戸で始めた小商いに成功したことに端を発します。安田が考えた商売繁盛のコツとは何だったのでしょうか? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
人形町の「目覚まし善さん」
一代で巨万の富を築き、三井、三菱、住友と並ぶ安田財閥を形成した安田善次郎。彼の生き方は「積塵為山」(せきじんいさん。ちりも積もれば山となる)主義で、勤倹力行の化身のように言われる。 善次郎が日本橋人形町で鰹節問屋兼両替商を営んでいた、「人形町の善さん」時代にこんなエピソードが残っている。当時の両替商は座して客を来るのを待つというのが普通だったが、善次郎はわらじをはいて早朝から得意先の門をたたいて回った。 「モシモシ、『人形町の善』です。昨夜までの売り溜め(売上高)はありませんか。モシモシ、『人形町の善』です」 まだ高いびきの問屋の旦那衆にとっては、ありがたくもない「目覚まし善さん」の襲来だったかも知れない。 善次郎の早起きは一時の思いつきではなかった。日本橋小網町に一家を構え、海苔・鰹節と両替商を本格的に初めたころのことだ。商売繁盛にはまず近所の評判が肝心とばかり水まきに精を出す。友人の石黒忠悳(ただのり、陸軍軍医総監)が以下のように証言している。 「毎朝5時に起きるところを4時に起き、両隣の店先を掃除して、水までまいておくことを続けた。それで、一体だれが掃除をしてくれるのか、近ごろ引っ越してきた海苔屋さんだそうな、と評判が高まった。これが安田式で、今日もそれを貫いている」
江戸に出て、まずは風呂屋 足掛け7年、わずか10両で始めた両替商
17歳のとき、江戸に出て身を立てようと、ひそかに家を抜け出すが、途中で連れ戻される。1857(安政4)年、再び出奔する。こんどは首尾よく江戸の地に足を入れることができた。知りあいの風呂屋で三助のまねごとをやる。昔から風呂屋の従業員は富山や新潟など北陸の雪深い地域の出身者が多いといわれる。雪国で鍛えられた人でないと務まらない仕事だった。善次郎がまず風呂屋にわらじを脱いだのも合点がいく。そしてある両替商に奉公、善次郎の奮闘録が始まる。実業之世界社編『財界物故傑物伝』にはこう記されている。 「あるいは玩具の商人となり、あるいは海苔、鰹節屋の若者になるなど、つぶさに苦心したが、資本の蓄積に努め、足掛け7カ年を経過して、漸く10両に達した。よって奉公生活を脱し、戸板の上に小銭を並べて両替商のまねごとを始めた」 1863(文久3)年、26歳のことで、小僧1人、飯炊きばあさんと合わせてたった3人の小さな、小さな旗揚げではあったが、市場経済人として善次郎が名乗り出たのである。 わずか10両の元手で始めた小商いではあったが、善次郎の利発と勤倹と愛きょうも手伝って、通行人の目を引き、商売繁盛、翌元治元年には25両の資金で人形町通り・乗物町に「安田屋」と称する鰹節や海苔兼両替商を開業する。これがのちの安田財閥の創始になるなどとは、だれしも思わなかったに違いない。