葬式で「100万円の札束」をポンと差し出す…究極の人たらし・田中角栄が地元でやっていた"驚異のおもてなし"
■「外務大臣も務まる能力がある」と言わしめた その後の「角園」両者の関係は、きわめて“蜜月状態”で推移していたものだった。先のハマコーと同様、園田もまた田中一流の「誠心誠意」に、してやられてしまったということだった。田中という人物、術策で人と接することはまずなかった。改めて、相手への気配りが優先する人間関係が特徴だったということである。 中国の撫順に生まれ、昭和12年「李香蘭(りこうらん)」の名で映画界入り、『暁の脱走』などで一世を風靡(ふうび)した山口淑子(よしこ)(のちに結婚して大鷹姓)は、フジテレビ「3時のあなた」の司会などで活躍するなか、田中角栄に乞われて自民党参院議員となった人物であった。 人柄は誠実で、高齢化社会、中国残留日本人孤児、外国人労働者、親アラブ派としてパレスチナ問題などに取り組んでいた。環境政務次官のほか、参院沖縄北方特別委員長、党外交部会長代理、沖縄振興委員長などを歴任、田中角栄をして「外務大臣も務まる能力がある」と言わせたものであった。 その山口には、筆者は参院議員当時に何度か取材をさせて頂き、その後、議員バッジをはずしてからも、週刊誌の連載企画などで10回ほど取材記者としてタッグを組んだ思い出がある。 ■「君にぜひ、会いたいと言っとる。すぐ、来れんかね」 その山口と鹿児島への取材で同道した際に、山口から田中との次のようなエピソードを聞かされたことがあった。ちなみに、鹿児島への同道は、ある事件で死刑が執行されてまだ間がない青年の母親を、山口にインタビューしてもらうためであった。 筆者は事前に取材しておいた内容、事項を山口に伝えてあったが、このいささか重いテーマを核心をはずすことなく、見事な“聞き上手”ぶりを発揮してくれたことが印象深く残っている。 さて、山口による田中の気配りエピソードである。 「先生(田中のこと)は、私のことを山口と呼ばず、ふだんから李香蘭、李香蘭と呼ばれていた。ある日、夜10時過ぎた頃、先生から突然の電話が入ったのです。『いま、君の大ファンの皆さんと一杯やっている。君にぜひ、会いたいと言っとる。すぐ、来れんかね』と。 で、『どちらへ伺えばいいんでしょうか』と聞くと、『(新潟県)長岡だ。ヘリコプターを出させるから、すぐ来るように。1時間もあれば、こっちに来られるだろう』でした。結局、『いまから新潟へは無理です』と、ご遠慮させて頂きました。 女性ですから化粧もある、車でヘリの発着場までも行かねばならない、ヘリが到着してもそこからまた車でしょ、とても1時間や2時間では無理でした。午前零時はとうに過ぎてしまいますから。『そうか……』と先生、電話口でなんともガッカリされていたのがよく分かったものです」 ここでの山口の“驚嘆”は、大きく3つあったと思われる。 余人がとても考えのつかぬ、深夜にヘリで来てくれという発想が一つ。もう一つは、支援者の「李香蘭に会いたい」という想望になんとか応えてあげたいという田中ならではの気配りの凄さ。そして3つは、「そこまで君を買っているんだ」とする田中の山口に対する気配りということである。ここでも、田中の物事の対応への全力投球ぶりが垣間見られたのだった。 ---------- 小林 吉弥(こばやし・きちや) 政治評論家 1941年、東京都に生まれる。早稲田大学第一商学部卒業。的確な政局・選挙情勢分析、歴代実力政治家を叩き合いにしたリーダーシップ論には定評がある。執筆、講演、テレビ出演などで活動する。著書には、『田中角栄 心をつかむ3分間スピーチ』(ビジネス社)、『田中角栄の経営術教科書』(主婦の友社)、『アホな総理、スゴい総理』(講談社+α文庫)、『宰相と怪妻・猛妻・女傑の戦後史』(だいわ文庫)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『新 田中角栄名語録』(プレジデント社)などがある。 ----------
政治評論家 小林 吉弥