鴻池、加賀屋… 豪商集う大阪 資金調達の拠点に 用心棒待遇にも 誠の足跡 新選組を行く
文久3(1863)年、わずか二十数人でスタートした新選組。京都守護職・会津藩預かりとなったものの、隊士を募集し所帯が大きくなるにつれて台所事情は苦しい状態が続いた。そうした中、目を付けたのが鴻池や加賀屋をはじめとする大阪の豪商だった。新選組は資金繰りなどのために大阪にも足を延ばし、拠点を置くようになった。 【写真】八軒家浜船着場。多くの観光客らでにぎわっていた 大阪城の北西約1キロ、大川沿いに位置する京阪天満橋駅近くに観光船が発着する八軒家浜船着場。春の陽気に包まれ、外国人観光客らでにぎわっていた。「三十石船が伏見とを往来し、新選組も船で大阪を訪れた」。同行する幕末維新史研究家、木村幸比古さん(75)が説明する。 当時の船着き場はその後の埋め立てで姿を消し、天満橋駅に面した土佐堀通の南側歩道に「八軒家船着場跡」の碑が立つ。西に少し歩くと、商店の外壁に「船宿京屋忠兵衛跡」の銘板がある。当時、周辺に8軒の船宿があったことが地名の由来で、京屋は新選組の定宿だった。「彼らはここを拠点に軍資金を調達した」と木村さん。それ以外にも隊士の募集や討幕派の探索のため、新選組は度々大阪を訪れていたという。 ■組織の強化に 結成間もない文久3年7月、局長の芹沢鴨は鴻池を訪問。京都守護職の名をかたり、軍資金として200両(現在の800万円)の調達を申し入れた。面会した主人は即座に用立てたという。 芹沢の暗殺後も、池田屋事件などで報奨金は出たが、新入隊士募集などで軍資金が度々不足。局長の近藤勇が鴻池や加賀屋から多額の資金を調達した。京都新選組同好会の奈良磐雄さん(76)は「激動の時代、志だけでは事は成しえない。組織を強くするためにとにかく金が必要だっただろう」とおもんぱかる。 木村さんによると、その額は現在の億単位にあたる。鴻池や加賀屋は金融業などのほかに、土木事業も手広く商っていた。当時、大阪では臨海地などの埋め立てが進んでおり、「現在も大阪市住之江区に加賀屋の地名が残るなど、鴻池も加賀屋も『大手ゼネコン』として巨万の富を築いていた」と語る。 そのため、近藤は会津藩預かりの立場を利用し公共工事への便宜供与をちらつかせて資金を集め、鴻池は新選組を用心棒待遇に。「史料でもこうした公共工事と新選組の資金調達の時期が一致しており、一部は会津藩にも上納されていた」と指摘する。