仕事内容は想像通りだったが…体力自慢の元自衛官が「金融機関での警備業」を1年も続けられなかったワケ
自衛官の多くは55歳~57歳で定年を迎える。ライターの松田小牧さんは「充実したセカンドキャリアを歩む人もいるが、自衛官としての経験がまったく活用できずに苦しんでいる人も少なくない」という――。(第2回) 【この記事の画像を見る】 ※本稿は、松田小牧『定年自衛官再就職物語』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。 ■体力自慢の元自衛官が1年で仕事を辞めたワケ 多くの元自衛官が選ぶ警備員や輸送業といった仕事は、当然ながら身体が資本となる。その点で、屈強な身体を持つ自衛官が重宝されるわけだが、どれだけ鍛え上げていたとしても、心身の不調は突然にやってくる。 島野忠和氏(仮名)は、高校卒業後に陸上自衛隊に入隊、54歳で退官する。普通科隊員として在職中はランニング、筋トレと体力づくりに余念がなかった。若い隊員たちに交じって駆け足をしても、そん色のない存在。 先に退職した人らの声を聞き、「警備員なら問題なくやっていけるだろう」ととくに大きな不安も抱かず警備会社への再就職を決めた。 配属されたのは、金融機関での警備。「覚えることがそう多いわけではなく、まあ想像通りといった仕事でした」と振り返る。しかし、再就職してから1年もたたずに、自衛隊時代から抱えていた腰痛が悪化。歩けば脚にもしびれを感じ、歩くことすら億劫になった。病院にも通い、少しよくなったと思ったらまた悪化するというループを繰り返した。 「腰が痛いので仕事を休ませてください」。苦渋の思いで職場にそう告げるたびに、「職場に迷惑をかけている」との思いが島野氏を苦しめた。若い隊員にも負けない体力が自慢だった自分が、いまや「ただの老人」になってしまった。 そう思うと、自衛官時代にもそう流すことはなかった涙が勝手に出てきた。いつの間にか食欲も減っていった。あれだけ好きだった肉も、喉を通らなくなっていった。
■「妻がいなければ、そのまま孤独死していた」 そんな島野氏を妻も心配し、半ば引きずられるようにして心療内科を受診させられた。診断結果は「うつ病」。自衛隊時代に培ってきた「強い自分」が音を立てて崩れたような気がした。 「もうこれ以上、職場に迷惑はかけられないと思い、退職届を出しました」 会社は、島野氏を引き留めることもなかった。 「退職届を出した翌日からしばらくは、部屋から出る気力もありませんでした。中には何度も連絡をくれた同期もいましたが、連絡を返すこともできなかった。妻がいなければ、そのまま孤独死していたと思います」 頼みの綱は妻の存在だった。無理に叱咤激励することもなく、そのままの島野氏を受け入れてくれた。家計的にも、妻が仕事を続けていたことで何とか助かった。若いころには「専業主婦になってほしい」と思う島野氏と仕事を続けたい妻の間で喧嘩もあったが、妻の覚悟が時を経て、島野家を救った。 1年ほどが経ち、腰痛や脚のしびれ、うつ病は「完全に治った」とまではいかないが、徐々によくなっていくのを感じた。「妻にばかり頼ってはいられない」との焦燥感から正社員の道を探ったが、身体を使う仕事には不安があった。しかしそれ以外に就けそうな仕事も見当たらなかった。 ■自衛隊時代の同僚とは距離を置く 結局選んだのは、最寄り駅から数駅先にある薬局でのアルバイトだった。徒歩圏内にもアルバイトを募集している店はあったが、生活圏内で見知った人たちがいる中でのアルバイトには抵抗があった。シフトは週3で最大5時間。それがいまの島野氏の“限界”だ。 月収にして7~8万円程度。一人で家計を賄うにはまったく不十分だが、妻の収入と合わせることでなんとか日々の生活を送っている。 主な仕事内容は品出しや棚卸し、店内の清掃。うんと年下の店長に指導されることもしばしばある。島野氏の仕事ぶりが評価されているかは「自分ではわからないが、決して高い評価を受けているわけではないと思う」と話す。 仕事には復帰したが、いまも自衛隊時代の同僚らとは距離を置いている。「みんなには、自衛隊時代の『強い自分』だけを覚えていてほしいという、ちっぽけなプライドがあるんです」と話す。自衛隊には、いまも感謝している。一方で、複雑な思いもある。