『フェイクドキュメンタリーQ』は時代を象徴する “ブーム”を牽引する独特な不気味さに迫る
『フェイクドキュメンタリーQ』と『新世紀エヴァンゲリオン』の共通項
SNSや動画共有サイトなどの発展以前にも、似たようなものはあった。『スター・ウォーズ』シリーズの細かなSF設定が、雑誌上でファン同士の議論を呼んだり、デヴィッド・リンチ監督のドラマ『ツイン・ピークス』や、庵野秀明監督のTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は、90年代に謎めいた内容の考察が展開され、関連本も多数出版されることになった作品だった。 本シリーズが『新世紀エヴァンゲリオン』と共通するのは、意味深な要素を作中に散りばめることで、受け手側の探究心を促す効果を目論んでいるという部分だろう。だが、TVシリーズ、旧劇場版を新たな劇場版として蘇らせ、その総決算として完結を迎えた映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)では、作中の謎よりも、庵野監督自身の気分が中核となっていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』の本質は、ストーリー上の「謎」とは別のところにあったように感じられるのだ。作品内の「謎」とは、より大きなテーマを伝えるためのギミックである部分が大きかったということだ。 しかし作品の謎にこそ最も大きな魅力を感じ、その裏にテーマを見出していく鑑賞者も少なくない。スタンリー・キューブリック監督のホラー映画『シャイニング』(1980年)の内容を、さまざまな人物が考察する姿を映し出したドキュメンタリー映画『ROOM237』(2012年)では、映像の中のふとした一部にメッセージが宿っていると主張している。そこでは、「なるほど」と思えるような考察がある反面、「さすがにこじつけでは……」と思えるような考察も紹介されている。 この種の「こじつけ」は、社会問題になっている陰謀論の萌芽にもなり得るところがあるだろう。明らかになっていない事柄が、現実の何かと偶然に一致したときに、それが真実であると思い込んでしまうのだ。「考察」というものには、こういった落とし穴があることを、われわれも頭に入れていなければならない。 多くの一般視聴者による考察、そして誰もがそれに参加できるというゲーム感覚の面白さというのは、SNSの発展によって、陰謀論の広がりが加速してしまった状況と似通っているところがある。「フェイクドキュメンタリー」という、真実めいた娯楽作品に対する盛り上がりというのは、この陰謀論が盛り上がる環境の醸成と表裏一体であるところもあるのではないだろうか。 本シリーズの最新エピソード「Mother」は、まさに、このような陰謀論的な考察にのめり込んでしまう人物の、危うさを感じさせる姿が映し出される。それはあたかも、コメント欄などで考察を展開し、エピソード同士の共通点を見出して何らかの真実をあぶり出そうとする、視聴者たちの姿勢に重なるところがあるのだ。 じつは、このエピソード「Mother」については、書籍版で驚くような展開が明らかになる。そしてそれは、ある意味で『フェイクドキュメンタリーQ』という作品の本質を表す、一つの衝撃的な結論となっているところがある。もちろん、それは作中の「謎」を全て氷解させるような答えではないが、「フェイクドキュメンタリー」というものを、根本から考えさせる結末であることは確かだ。本シリーズ『フェイクドキュメンタリーQ』は、ついに、こういったある種の哲学といえるような領域にまで到達したといえる。そしてそれが、メディアミックスのかたちで補完し合い成立するというのも、現代的な事象といえそうだ。 SNSや、YouTubeなどの動画共有プラットフォームの隆盛により、新たな世代を中心にメディアのあり方が変化してきている現在。そんな状況下において、いろいろな楽しみ、そしてさまざまな脅威が生まれてもいる。『フェイクドキュメンタリーQ』は、そんな時代を、いま最も象徴する作品として、意味のあるものになっているのではないだろうか。
小野寺系(k.onodera)