オースチン・ヒーレー所有36年目にして初のクラブイベントに参加!|『Octane』UKスタッフの愛車日記
『Octane』UKスタッフによる愛車レポート。マーティンは、30年以上所有する1965年オースチン・ヒーレーで初めてクラブイベントに参加した。果たして、「クラブ好き」ではないというマーティン夫妻は楽しめたのだろうか? 【画像】「オースチン・ヒーレー・クラブ」のイベントに初参加!(写真3点) ーーーーー それは寒い雨の1月のことだった。郵便配達人が、「オースチン・ヒーレー・クラブ」の雑誌『RevCounter』の最新号を我が家の郵便箱に投函してくれた。ヒーレー3000マーク3を36年間も所有しているにもかかわらず、実は私たちはクラブのイベントに参加したことがなかった。私が会員であり続けている理由は、主にはそれがクラシックカー保険の契約条件になっているからだ。 その雑誌の艷やかなページをめくっていると、あるイベントの広告に目が留まった。5月のバンクホリデーの週末に、ヨークシャー・デイルズで集会が開催されるらしい。我が家のヒーレーでドライブ旅行をする計画はなかったが、北に向かうのはいいかもしれない。私たちはヨークシャー・デイルズという場所は大好きなのだが、“クラブ好き”という人種ではない。賑やかなパーティーから無事に生還できるかどうか、少々自信がなかった。 イースト・ケント州を出て北に向かうと、雨が降り出した。高速道路に入ると、路面の水と18輪トラックによる水しぶきが凄まじい。車の流れに合わせてブレーキをかけて減速していると、ヒーレーの挙動は明らかに落ち着きがなくなってきた。古き良きA1道路をオーバードライブにして55mphで巡航するだけでも、少し怪しい感じだった。やっとのことでハロゲートのシダーコート・ホテルに到着したが、ウェルカムグッズを受け取ったのは私たちが最後だったようだ。今回は、私が30年以上クラッシックカーを所有する中で、経験したことのないほどの最悪のコンディションでの、280マイルものドライブとなった。 よく言われることだが、第一印象がすべてだ。チューリップロードの説明が書かれた週末のルートブックを見ていたら、1991年に初めて参加した「クラシックマラソン」を思い出した。一日の激走を終えて士気が高まったところで50台ほどの他の仲間たちと合流し、ウェルカムディナーを楽しんだ。 土曜日の朝、トリップメーターをゼロにして、私たちはホテルを出発した。妻のビバリーが初めてナビゲーターとなり、コマ図を握りしめていた。ペイトリー・ブリッジで交通事故が発生するまでは、すべてがうまく行っていたが、その後Uターンや急な迂回を余儀なくされた。念のため準備していたWazeのナビアプリのおかげで、別ルートで再合流することができた。順調ではあったが、走行距離が合わなくなったので、ビバリーはコマ図の解読に苦戦する羽目になってしまった。 石垣に挟まれた狭いポストマン・パット・ロードを進み、デイルズを横断した。ここにしかない美しい風景だが、霧に包まれることも多く。まるで「モンテカルロ・チャレンジ」のような穏やかなツアー風景だった。 アーンクリフのファルコン公会堂を通りかかると、上品なヒーレー・アボットと戦前のMGが停まっていた。ボンネットフードの中に頭を突っ込んでいる熱狂的なファンたちを見ながら、昼食に立ち寄った。十分にリフレッシュした私たちは穏やかに走り続けた。参加した他のヒーレーたちと隊列を組み、マルハムまで南下した。ある場所では、農場を通過するためにゲートを開ける必要もあった。楽しいデイルズのドライブもこれで終わり、その後はA道路で早めに戻った。ゼロリセットからの走行距離は95マイルとなった。 日曜日、私たちは2回目のロードツアーをスキップし、ハロゲートでしばし休息時間を楽しんだ。というのも、400マイル近くもヒーレーを運転したせいで、手足が少し痙攣してしまったからだ。それでもコンクールでは、駐車場を回って審査をした。私たち全員が審査員でもあったので、ペブルビーチでのコンクールのようなわけにはいかなかった。ほとんどの車がデイルズの泥をかぶっていたが、それが逆に良い味を出している。そして最後は、他のクラブイベント同様に、日曜日の夜のガラディナーでイベントは幕を閉じた。 結論はどうかといえば…、まったく、予想以上に楽しかった。メンバーからの歓迎も受け、ポール・ジョンソンと「オースチン・ヒーレー・クラブ」北部センターの仲間たちは、素晴らしいイベントを運営してくれた。今回の経験から、クラブの会員になることは雑誌や保険の割引以上に、大いに意味があるとわかったのだ。 文:Martyn Goddard
Octane Japan 編集部