谷川俊太郎「鳥羽」…詩人・吉増剛造が見た「詩の光」
詩人の谷川俊太郎さんがお亡くなりになりました。 谷川さんとともに戦後の現代詩を牽引してきた詩人・吉増剛造さんは、著書『詩とは何か』(2021年刊行)の中で、谷川さんの初期の作品「鳥羽」を、忘れられない作品として挙げます。 【写真】詩人吉増剛造が、詩と哲学の「交差点」からハイデガー哲学を読み解く 吉増さんが谷川さんの作品「鳥羽」に見た「詩の光」とは。そして、「ほんとうのよい詩」とは。『詩とは何か』から抜粋・編集してお届けします。
「何ひとつ書く事はない」
さて、現代の詩で、最も多くの読者を持っていらっしゃる谷川俊太郎さんという非常に大きな詩人がいらっしゃいますが、表面的にはとてもわかりやすい詩の姿をしていますけれども、谷川さんの初期の作品の中に、忘れられない「鳥羽」という作品があります。 伊勢志摩の近くの、恐らくこれも古い万葉以前の地名でしょうね。「鳥羽」というこの表記ができるより前に「とば」という、この言い方、地名と言ってしまってはいけないような、そういう詩の光を宿しているものがあったはずで、その「鳥羽」というのはこういう詩です。 * 何ひとつ書く事はない 私の肉体は陽にさらされている 私の妻は美しい 私の子供たちは健康だ 本当の事を言おうか 詩人のふりはしてるが 私は詩人ではない 私は造られそしてここに放置されている 岩の間にほら太陽があんなに落ちて 海はかえって昏い この白昼の静寂のほかに 君に告げたい事はない たとえ君がその国で血を流していようと ああこの不変の眩しさ! * 「何ひとつ書く事はない」、第一行から驚くべきことを言っていらっしゃいます。「詩人のふりはしてるが 私は詩人ではない」とまでも。ところが驚くべきことに、その「書く事がない」ことが詩になっているんですね。もうそこで「詩」が成り立ってしまっている。表面上の「意味」とは別の次元で。 そしてこの作品に詩としての深さ、輝き、力強さをもたらしたものはおそらくは、はじめに申し上げました「鳥羽」という「呼び名」、すなわち純粋な「言葉」の響きだったのです。それこそが詩の光なのですね、これによってもたらされたのです。 例えば三連目の「岩の間にほら太陽があんなに落ちて」。これは、「とば」という詩の光の声のあらわれ、そんなふうに言うことができると思います。 伝える「内容」がなくても、この「鳥羽」のように、何か一つの言葉さえあれば、詩は成り立ってしまう、いえ、むしろ、より正確に言いますと、詩が立ち上がってしまう、始まってしまうのです。 「私は造られそしてここに放置されている」という詩行には、まさしくそのような受け身の詩人、いえ、「詩人ではない詩人」への詩の突然の「立ち上がり」が示されているのではないでしょうか。 少なくともそんな詩のあり方があり得るというところが小説とは異なった、詩の不思議なところであり、また、ほんとうのよい詩とは、むしろそのようなものなのだろうと思います。
吉増 剛造(詩人)