【バレー】悼む 荒木田裕子さんの逝去に寄せて 奥本浩平
悼む ユウさんとのメールは7月11日が最後でした。「体調イマイチ、私もです。頭が痛くて朝からグダグダしてます。この季節はしょうがないですね。のんびりしましょう。無理してもしょうがないし。」(13時44分)、僕の方から「しばらくマイペースでのんびりしましょうね。パリ五輪のバレー応援に全力をそそぎましょう!」(18時39分)、 「そうしましょう!」(18時40分)。これっきり。何度電話してもメールしても、返信なし。突然、9月17日朝、「荒木田裕子さん、死去」の一報を受けました。死因は筋ジストロフィーとか。 一瞬、時にビールを飲みながら、時にコーヒーだけでのバレーボール談義が、頭の中を駆け巡り、ただ茫然。現役を引退してからの付き合いが多く、ザックバランに話し合うようになったのは、私がスポーツ紙を退職してから。マスコミへの警戒感がなくなったからでしょうか。JVA(日本バレーボール協会)やJOC(日本オリンピック委員会)のことなど、バレーボールのことなら2時間でも3時間でもしゃべり合ったものです。正義感が強く、自分の意見をしっかり言う。東京五輪・パラリンピックの談合事件では、組織委員会副会長の立場もあり「きっちり総括をしないといけないのに誰もやろうとしない」と悔しがっていたのが思い浮かびます。 2、3か月に1回、中野か高円寺で会ってのバレー談義も1月の高円寺が最後になりました。パリ五輪での女子には、自ら強化委員長を務め28年ぶりの銅メダルを獲得したロンドン大会を思い浮かべながら、真鍋監督へエールを送っていました。ここ2,3年、JVAからは距離を置いていましたが、その動向は頭から離れません。「川合くん(会長)、どうしていますか。力になる事があれば、ね。〇〇さんは?」あれこれ気になりながらユウさんは亡くなりました。70歳。モントリオール五輪から48年、金メダリスト12名の中で真っ先に天国へ。それにしても語学堪能で広く海外にもネットワークを持つ貴重な人材をバレーボール界はもちろん、日本スポーツ界は失いました。