テクノロジーが街の立地を変える? トヨタが打ち出す「コネクティッドシティ」とは
幕府は鎖国令を徹底するため、外洋航海が可能な大型船の建造を禁止したのみならず、構造的にもマストを1本に限っていた。たった1本のマストで可能な限り荷物を速く運ぼうとすれば帆を大きくしたい。その結果マストが長くなる。しかしながら、船体に対して長大なマストは高い重心のために嵐に弱く、1本マストは操船の自由度も低いため、風向きで進行方向が制約される。一度悪天候に遭えば、転覆を避けるためには切り倒すしかない。しかしもともとマストは1本なので、切り倒してしまえば、嵐での遭難を避けられたとしても、あとは漂流するのみである。 このように技術的制約をかけられた当時の和船にとって、千葉・犬吠埼(いぬぼうさき)沖の鹿島灘は大変な難所であった。強い黒潮の影響によって、沖合に流され戻れなくなるケースが少なくなかったという。時代によって多少の差はあれ、リスクが高すぎたため、蝦夷からの物流は、日本海を通り、九州と本州の間の関門海峡を経て瀬戸内海を通過し、大阪へ達する航路を年に一往復する北前船が主流であった。 さらに前述したような和船の技術的制約によって風待ちが必要であり、北前船は陸伝いに頻繁に寄港しながら航海したため、江戸期には日本海側の多くの街が大いに栄えたのである。そして、このルートの終着地となったのが大阪であり、大阪は商業都市として繁栄した。北前船は日本の繁栄エリアを変え、食文化を変えたのである。 しかし明治になって鉄道が登場すると状況が一変する。特に明治24(1891)年に東北本線が開通したことで北前船は役目を終えていく。 鉄道の場合、大消費地である東京と商都・大阪を最短距離で結ぼうと思えば、当然太平洋沿いになる。こうして日本の動脈は日本海沿岸の海路から東海道をトレースする鉄道へと遷移し、日本海沿岸の都市が没落するのと入れ替わりに太平洋ベルトラインの都市が発展していき、かつ鉄道駅を中心とした住宅地が形成されていった。人も貨物も全てが東海道に集約されたのである。加えて私鉄各社が中心となって、通勤客を増やすために鉄道沿線の住宅地開発を進めたことによる発展の要素は大きかった。 そしてまた時代は変わる。1964(昭和39)年の東京オリンピックと前後して、日本にもモータリゼーションが始まると、徐々に郊外や幹線道路へと商業の中心が移り、鉄道の駅から離れたニュータウンが建設されていく。バブル崩壊以降は、旧市街地である駅前は道路設計の古さなどから商業的メリットを失って、続々と“シャッター通り”が生み出されていく。 歴史を振り返れば、このように法規制やテクノロジーの進化は都市の繁栄に多大な影響を与えてきたのである。そして、今また100年に一度の大改革が訪れている。前編で記した通り、家電や住宅設備などの急速なIoT化(もののインターネット接続)や、モビリティにおけるCASE(Connected:コネクティッド、Autonomous:自動化、Shared:シェアリング、Electric:電動化の頭文字からの造語)、車・公共交通などの移動手段をITでつなぎ、サービスとして提供するMaaS(マース=Mobility as a Service:移動のサービス化)などの進展により、都市は再び新しいロケーションを求め始めると考えられる。