山東昭子 女性初の派閥領袖経験者が語る政界のリアル
昔の派閥は本音で話ができた
当時の田中派は、今の派閥とまるで格好が違いました。 親分の下に人が集まり、親分と幹部がお金を集める。新人議員の場合、選挙区で頼まれた陳情は自分ではまだ処理できないから、派閥の先輩たちに頼んでカバーしてもらう。法案や予算についても同様です。選挙の時にできた借金を、幹部の人たちが割り勘で払ってくれたりもしたそうです。そんな世界でした。 なにより、派閥のメンバー全員が、田中角栄という人と直に本音で話ができました。総裁選で中曽根康弘さんを候補に決めた時、実は当初、私は反対しました。派閥ではみな自分の意見をどんどん言って、反論されて、説得されて、それはもう、いろいろありましたよ。そのような経験を経て政治家として成長していったのです。そういう本音の話ができるのが、本物の派閥だという気がしますけどね。 今の永田町に、田中角栄のような人がいるかと言えば、うーん……。派閥の領袖と言っても、ごく一部の人とだけ、本音で話をしているかもしれないけれど、全員とはどうでしょうか。だから、私に言わせれば、今はもはや「派閥」という感じはしないですね。
田中派、竹下派から高村派へ
私がいた田中派は竹下派になりました。1982年、比例名簿に登載される候補者の順位をあらかじめ決める拘束名簿式による比例代表選が導入されると、党員、ありていに言うとお金を多く集めた人が上位にランクされるようになり、私は92年の参院選で落選しました。しばらくして、個人の得票数で当落が決まる今の制度になり、河本派を継いだばかりの高村正彦会長(のちの外相、自民党副総裁)から「女性の時代だから、ぜひ」と話がありました。高村会長の中央大学の先輩が、私の科学技術庁長官時代の部下という接点があったからです。 それで政界に復帰した後は、高村派に入りました。メンバーは10人ちょっとですから、非常にアットホームな感じでしたね。 高村会長は外務大臣を務められ、防衛・安全保障にも大変詳しい。そうした政策について、グループ内で身近に話ができるのはとてもよかったですね。 ――自民党派閥をめぐる政治資金規正法違反事件を受け、安倍派や岸田派(宏池会)などが解散を決める一方で、山東さんが顧問を務める麻生派(志公会)などは引き続き活動を継続することを決め、対応が分かれました。 この問題はなかなか難しいですよね。「政治は数」であることは事実です。一方で、どの派閥でも、なんとなくこの人とは波長が合う、合わないというのはどうしてもありますよね。今回の問題で、存続を決めた派閥から離脱する人が出たりしているのは、そういうことも影響していると思います。 派閥は、若手の教育や人材の登用など大切な役割も担ってきましたが、その機能、役割について改めて考える時に来ているのでしょう。 衆院選が中選挙区制だった時代には、派閥は非常に効果的なシステムだったわけです。同じ選挙区に同じ党の候補者が複数出るので、それぞれの派閥の応援によって自民党がより多くの議席を勝ち取るという側面がありました。今は小選挙区制になり、各選挙区から党の公認候補1人しか出られませんからね。