内職賃金が小作農の経済観念を鍛えた 大大阪もう一つの顔、雑貨工業舞台裏
戦前、日本の輸出の柱は製糸業でしたが、ブラシやボタンといった雑貨製品も外貨獲得において高い割合を占めていました。「大大阪」はこうした輸出向けの雑貨産業の一大集積地を形成していたといいます。 ただ雑貨産業の場合、大工場は海外市況に対応できず、小作農が内職として仕事を請け、それをまとめる製造問屋による組織がつくられるということが起こりました。日本経済史、日本経営史が専門の南山大経営学部、沢井実教授の連載第4回は、大大阪のもうひとつの側面、輸出雑貨工業をみていきます。 ----------
「大大阪」のもうひとつの顔:輸出雑貨工業の展開
戦前日本の外貨獲得産業の筆頭は製糸業であったが、雑貨製品も大きな割合を占めた。1919年の輸出額500万円以上の主要輸出品は生糸、綿織物、絹織物、綿糸の順であり、この4品目で輸出総額の56%を占めた。しかし同時に6位のマッチを先頭に、メリヤス製品、陶磁器、真田、ブラシ、ボタン、履物、帽子、琺瑯鉄器といった雑貨製品が重要な位置にあった。 1910~22年のブラシでは大阪府の生産額の対全国比は79~91%、貝ボタンでは34~58%、18~21年の琺瑯鉄器では56~69%であった。「大大阪」は輸出雑貨産業の一大集積地でもあった。 昭和になってセルロイドブラシが普及するまで、「満洲」から牛骨と豚毛が輸入され、大阪で牛骨を歯ブラシの柄に加工し、それに豚毛を植毛した製品が主流であり、その多くがアメリカに輸出された。 毛植部門を工場の中に持つ大工場は海外市況の振幅の大きさについていけず次第に没落し、代わって各生産工程が独立の個々の生産者によって担われ、そうした各工程を組織する者として「製造問屋」(自らは製造する訳ではなく、生産者を組織する機能を担う)があるといった生産組織が確立された。 第1次世界大戦期の中・北河内郡の近郊農村ではブラシ加工業者の増加が著しく、最盛期には毛植注文主と農村の内職者とを仲介する毛植請負業者は400人を超え、「毛植者は落毛売却による収入少からざるを以て、遂には盗毛の弊を生じ、為に毛植粗雑となり、矯正し難き悪弊を醸成せり」(鈴木範三「刷子製造業」、臨時産業調査局『調査資料』第34号、1919年、62頁)と指摘された。 請負業者から渡された豚毛を落毛=盗毛によって低加工賃をなんとかカバーしようとする内職者の行動が問題にされているのである。