那覇市が焦土と化した10.10空襲から80年「無差別攻撃だった」当時13歳だった少年が語る体験
沖縄テレビ
アメリカ軍が南西諸島の各地を攻撃し、那覇の街の9割が焼失した「10・10空襲」からきょうで80年となります。空襲は翌年の沖縄戦の始まりとしても捉えられていて、私たち沖縄テレビもきょうから戦後80年に向けた企画「戦世から80年繋ぐ記憶」をスタートさせます。 初回は体験者が語る10.10空襲です。炎上する街を目の当たりにした男性は「無差別攻撃」だったと空襲の体験を語りました。 那喜屋武奈鶴記者: 「80年前のきょう、沖縄の空に突如現れたのはアメリカ軍の艦載機や爆撃機およそ1400機でした。沖縄各地を襲った10・10空襲は沖縄戦の始まりと語られ、軍の施設だけでなく市街地も無差別に攻撃されました」 沖縄戦の前の年1944年10月10日、アメリカ軍は延べ1400機の艦載機を投入し、南西諸島の主な島々を攻撃しました。「10・10空襲」です。 「まさか10月10日、米軍だとは思わなかった」このように話すのは、当時13歳だった那覇市に住む金城重正さん(93)です。 空襲が始まった早朝は、那覇港で渡し舟に乗り、登校する途中でした。 金城重正さん(93): 「ちょうど港の真ん中に来た時に空襲が始まったんだ。沢山の飛行機が来る」「沖に停泊している日本の軍艦、そこにどんどん爆弾が落ちて燃えるわけ」 見渡す限りの日本の軍艦が次々と攻撃を受ける様子を見て、舟の上はパニックだったと金城さんは証言します。 金城重正さん(93): 「みんなもう(船頭さんに)早く上陸できるように急ぎなさいと言って。乗っていたのは5、6人くらいかな小さな舟だから命からがら」 金城さんが逃げ込んだのは、軽便鉄道の那覇駅、現在の那覇バスターミナルにあった防空壕でした。 金城重正さん(93): 「軽便鉄道の壕に入った。その壕に入って空襲されるのを見ていた」 第2次空襲が収まるまで壕に隠れていた金城さん。壕から出てみると、辺りは一面燃えていました。 金城重正さん(93): 「無差別攻撃だよ」「那覇の市内を見たら、みんな燃えて。炎で。これはもう大変だなと」 5次にわたる空襲で、那覇の街は9割が焼け野原となり、255人が犠牲になりました。 アメリカ軍は空襲だけでなく、翌年の沖縄への上陸作戦にむけて、沖縄の地形や、軍事施設を上空から撮影し、情報収集に努めていたとされていて、10.10空襲は沖縄戦の前哨戦とも位置付けられています。
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