「電気軌道」として開業したのに108年間“電車ナシ” 異色づくめのローカル線に乗る もしかしたら“海を渡っていた!?”
幻の「本四淡路線」を構成したかも
残った池谷~撫養間は「撫養線」へと改められました。ややこしいのですが、撫養線の蛭子前駅は1948(昭和23)年に「撫養」駅へ、それまでの撫養駅は「鳴門」駅へとされました。路線名も1952(昭和27)年に「鳴門線」へと改められ、ようやく現代と同じになります。 しかし、鳴門線は1968(昭和43)年に国鉄が廃止を進める「赤字83線」にリストアップされ、阿波鉄道が建設し支線となった鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原)は廃止されます。鳴門線も廃止されそうになりましたが、徳島~鳴門間が18.8kmと短く、徳島市方面への通勤通学客が増加し始めたことで、廃止を免れました。 なお、国鉄は1955(昭和30)年より、山陽本線の鷹取駅(神戸市須磨区)から分岐して淡路島を経由し、鳴門駅に至る本四淡路線を検討していました。しかし、東海道新幹線の成功もあり、本四淡路線計画は新幹線に切り替えられます。 本四淡路線が早い時期に在来線で建設されていたなら、鳴門線が本州と四国を結ぶ幹線になったかもしれませんが、明石海峡大橋は道路専用橋となり、実現しませんでした。そして1987(昭和62)年に国鉄分割民営化で、JR四国・鳴門線となったわけです。 2024年現在の鳴門線には、2両編成の国鉄型気動車のキハ40・47形が走ります。8月末に高徳線からの徳島発を利用すると、乗客は60名ほどでした。吉成駅を出ると、阿波電気軌道が越えられなかった吉野川を渡りました。
大半が乗り通し利用
池谷駅から鳴門線へ。高徳線のホームは別の位置にあり、あいだに駅舎があります。3番線に到着し、上り列車と交換しました。鳴門線では列車速度が落ち、また鳴門駅以外は無人駅のため、車掌がこまめに車内巡回を行っていました。 途中駅での乗客の入れ替わりはあまりありませんでした。教会前駅では3名が下車。ぱっと見て教会らしき建物はないのですが、奥に見える寺のような建物が「天理教撫養大教会」です。 金比羅前駅を出ると、車窓右側に新池川が並走し、川が離れると撫養駅です。かつての終着駅では4名が下車しましたが、大半の乗客は動きがなく、そのまま終点の鳴門駅へ。急にビルが目立つようになり、都市近郊路線のような風景になりました。 1面2線の鳴門駅では50人以上が下車。有人駅なので駅員がおり、みどりの窓口もあります。駅前には高速バスの停留所や、近くにサッカーJ2「徳島ヴォルティス」のスタジアムもあり、にぎわっていました。 乗車した実感としては、潜在需要はありそうでしたが、単線で交換駅もないので、1時間に1本なのが惜しまれます。大半が徳島駅から鳴門駅への需要なので、朝の上り1本だけある「途中全駅通過の鳴門発池谷行き」のように、停車駅を絞った快速をあいだに挟むなどして、本数を増やせないものかと感じました。
安藤昌季(乗りものライター)