甲子園で苦戦つづく北海道勢 道産子球児たちの道外流出はなぜ止まらない?
「道産子がやりました!」 2004年夏の甲子園。北海道勢として初めて優勝を成し遂げた駒大苫小牧の香田誉士史監督(当時)が、涙ながらにお立ち台で言った言葉だ。その時の駒大苫小牧は、ベンチ入りメンバー全員が北海道出身の選手たちだった。 【写真】ヒロド歩美キャスターが甲子園と阪神タイガースを語る・インタビューカット集 翌05年、06年は兵庫出身の田中将大の活躍もあって駒大苫小牧は3年連続の夏の甲子園決勝進出の快挙を果たしたが、その後、夏の甲子園での北海道勢は16年に北海が準優勝したぐらい。ベスト4やベスト8入りすらない。17~22年にかけては(20年はコロナで大会中止)5大会連続で南北の代表がいずれも初戦敗退に終わっている。 なぜ北海道勢は苦戦が続いているのか。ひとつの要因として考えられるのが、道産子球児たちの道外流出だ。昨今の高校野球はスカウト合戦になっており、有力な選手ほど道外の学校の目に留まりやすい。その結果、道外流出が進んでいる。 【全国の強豪校で活躍する道産子球児】 今夏の甲子園でも、多くの道産子球児が全国の強豪校の主力として活躍している。 健大高崎(群馬)には、この夏の甲子園でエースナンバーを背負った最速154キロ右腕・石垣元気(洞爺湖シニア)に、青柳博文監督が「守備力を考えるとどうしても外せない」と信頼を寄せるサードの加藤大成(札幌新琴似シニア)、さらに甲子園初戦で先発登板した左腕の下重賢慎(釧路シニア)らが所属し活躍した。 京都国際にも、3番の澤田遥斗、センバツで4番を打った高岸栄太郎(ともに北広島シニア)が在籍し主力として活躍。また背番号14の尾角凌(新琴似シニア)もおり、3人の北海道出身の選手がベンチ入りを果たした。 そのほかにも花咲徳栄(埼玉)の1番打者・斎藤聖斗(小樽シニア)、日本航空(山梨)のリードオフマンとして3安打を記録した平井湊人(新琴似シニア)が、それぞれ中心選手としてチームを牽引した。
なぜ、彼らは道外の学校を選んだのか。京都国際の高岸は父が駒大岩見沢でプレーしていたが、小学校の卒業文集に「関西の高校に行って甲子園に出て活躍します!」と書いていたほど、道外志向が強かった。 「小さい頃から甲子園に見に来ていたんですけど、大阪桐蔭とか智辯和歌山とか、関西の高校は強いイメージがありました。そこから、関西の強豪校で野球をしたいなと。桐蔭とか智辯みたいな強いチームを倒して日本一になりたいという気持ちがあったので、京都国際に入りました。それと北海道は、冬はグラウンドが使えないので、1年間グラウンドを使える環境でやりたかったのもあります」 また斎藤の兄(優斗)は、地元・北海道の北照の3番打者として19年夏の甲子園に出場しているが、兄のいた北照への進学は「まったく考えなかった」と言う。 「実力には自信があったので、甲子園で優勝したいとか、上でやりたいという気持ちがありました。甲子園優勝となると、道外の学校のほうが近い。大阪桐蔭に行きたかったんですけど、声がかからなかったので、熱心に誘ってもらった花咲徳栄に決めました」 目標は甲子園に出ることではなく、日本一になること。そのためには、北海道の学校よりも道外に出たほうがいいという感覚のようだ。ある中学の指導者はこう語る。 「正直言って、北海道の学校は甲子園に行っても勝てないですよね。私のチームにも道内の指導者の方がよく来られますが、『甲子園で勝つ』とか『甲子園で優勝する』という言葉は聞いたことがありません。その点、内地から来られる高校の指導者の方は、甲子園経験が豊富なこともあるのか、甲子園の話をよくされます」 駒大苫小牧で一時代を築いた香田監督は、甲子園に出ていない時から日本一と口にしていた。選手たちとあいさつをする時も、指一本を立てるナンバーワンポーズをしながら「こんにちは」と言っていたほどだ。