そのまま逝かせてあげれば…「超高齢者」が倒れたとき、「救急車」を呼んでしまうと起こる「誰も得しない事態」
---------- だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 【写真】人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。 ----------
救急車を呼ぶべきか否か
どんなときに救急車を呼ぶべきで、どんなときは呼ばないほうがいいのかも、多くの人が迷うことでしょう。 わかりやすいのは、超・高齢者の意識がない状態のときです。この場合は、そのまま静かに見守ってあげるのがベストです。かかりつけ医または、在宅医療の主治医がいれば、連絡して看取りに来てもらいましょう。間に合わなくても大丈夫です。逆に、間に合っても医者にできることはありませんし、命が終わってからでも、医者が死亡確認するまでは、法的には死んでいないことになりますから、死亡診断書も書いてもらえます。 この場合、救急車を呼んでしまうと、悲惨なことになります。超・高齢者が死にしているとき、救急隊員は「どうして救急車なんか呼ぶんだ。このまま逝かせてやったほうがいいのに」と思いつつも、当然、口には出せず、型通り人工呼吸をしたり、心臓マッサージをしたりしながら、病院に運ばざるを得ません。 運び込まれた病院の医者も、「どうして病院になんか連れてくるんだ。そのまま逝かせてあげろよ」と思いつつも、やはり口には出せず、型通りに蘇生処置をし、運悪く心拍が再開などしたら、気管チューブを挿入し、人工呼吸器につなぎ、肺のX線検査をし、点滴をし、導尿カテーテルを入れと、せざるを得なくなります。 それでまた退院できるくらい元気になればいいですが、超・高齢者の場合はその可能性は低く、仮に復活したとしても、病気や年齢が回復するわけではありませんから、またすぐ同じ状態になるのが関の山です。 冷静に考えれば理解していただけると思いますが、ふだんから心の準備をしていないと、救急車を呼ばない状況に耐えるのがむずかしくなります。だから、つい救急車を呼んでしまう。それは倒れているお年寄りのためではなく、不安に耐えられない家族が自分の安心のために呼んでいるのです。それで、病院に運ばれたお年寄りは、右に述べたようなつらい目に遭わされます。それで最期を迎えたら、せっかく自宅で静かに亡くなりかけていたのに、余計な苦しみを負わされることになります。 それでも病院へ運ばずにはいられないと思う人は、自分が運ばれる側になったときを想像してみてください。家族の安心のために、肋骨が折れる心臓マッサージや、口から形の金具とプラスチックのチューブを突っ込まれ、尿道に管を通されてもいいでしょうか。 超・高齢者の身内がいる人は、最後の孝行のためにも、意識がない状態になったら、救急車は呼ばないと、ふだんからしっかり気持ちを決めておくのがよいと思います。 さらに連載記事<突然、看護師が「遺体の肛門」に指を突っ込んで…人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」>では、人間が死んだ後の様子について詳しく解説しています。
久坂部 羊(作家)