いつから電気街?名古屋「大須」の歴史をひも解く
東京の「秋葉原」、大阪の「日本橋」と並び、日本三大電気街のひとつに数えられる名古屋の「大須」。買い物客が店主とやりとりをしながら値切って家電を買うといった光景が、かつては多く見られたが、最近は唐揚げ専門店が増えたりサブカルチャーなども栄え、昔と比べて街の雰囲気は変化した点が多い。大須の街はどのように変わったのだろうか。商店街の関係者らに話を聞いてみた。
「アメ横ビル」が電気街のはじまり
まず、大須が電気街と呼ばれるようになった所以は、「アメ横ビル」の進出が大きく関わっていると言われている。アメ横ビルとは、大須商店街の中にある、家電製品や雑貨が所狭しと並ぶ商業ビルだ。 かつて大須の街は、映画館や演芸場などがひしめく名古屋随一の歓楽街として賑わっていた。しかし、第二次世界大戦によって壊滅的な被害を受け、戦後の大規模都市計画も関係し、客足は栄へと流れてしまった。さらに、人気の映画館だった東宝名劇(旧名古屋劇場)が1972年に火災で焼失し、街は活気を失いかける。 そんな中で大須再生のきっかけとなったのが、東宝名劇の経営者(故高瀬泰昌氏)が計画した商業ビルの建設だったという。1977年、東京の秋葉原から誘致した電気店をメインに、輸入雑貨店なども加えた70店が集まり、「ラジオセンターアメ横ビル」としてオープンした。 アメ横ビルの営業部長である横山さんに当時の話を聞くと、「周囲の関係者から聞いた話ですが、当時は大須の街は閑散としていたんだそうです。だからそんなところに建てても駄目だよ、と言われていて…。東京から呼ばれた電気店の方たちもその様子を見て不安になって、名古屋に来て早々に東京に帰る準備をしていたようです。それがいざオープンしたら約4万人もの人が押し寄せて、機動隊も出動するほどで。シャッターも曲がっちゃって、ニュースになったらしいです。そんな賑わいが数年続いて、夜中まで営業をしていたと聞いています」と話してくれた。 当時は珍しかったディスカウントをいち早く導入したのも魅力のひとつで、「“アメ横に来たら値切って買える”と宣伝していたそうです」と続けた。