あの“20年代”の輝きが蘇る……100年前に生まれたモダンの桂離宮・朝香宮邸
パリとアメリカの20年代
アール・デコとは、この博覧会前後のデザイン傾向を指し、25年様式とも呼ばれる。そしてそれはパリとアメリカとの関係を抜きにしては語れない。 全ヨーロッパが疲弊した第一次世界大戦後のアメリカは、空前の経済発展期を迎え、ローリング・トゥエンティズ、あるいはジャズ・エイジともゴールデン・エイジとも呼ばれた。ベルトコンベアによって生産されるT型フォードが世界の都市を走り、禁酒法が施行されたシカゴではアル・カポネが活躍した。大量消費時代の幕が開ける。また映画の時代の幕も開けた。いわば娯楽の対象も量産の対象となったのだ。 このアメリカに誕生した金満家がパリで遊んで落としたマネーが「レ・ザネ・フォル」を生み、アール・デコを生んだのでもある。アーネスト・ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルドといったアメリカの文豪がパリに住んだのも、チャールズ・リンドバーグがニューヨークからパリまで単独飛行したのもこのころだ。 当然のことながら、アール・デコはアメリカにも広がってニューヨークの高層ビルを飾り、日本にも広がって銀座の街をモガモボ(モダンガール、モダンボーイ)が闊歩した。 白金の朝香宮邸は、1929年から工事がはじまり1933年に竣工している。
ヌーヴォーからデコへ・自由から工業へ
ベル・エポックはアール・ヌーヴォーと、レ・ザネ・フォルは、アール・デコと対応している。 ヌーヴォーは、自由に向かう時代、植物模様と流れるような曲線をモチーフとした女性的東洋的な造形で、「新しい芸術」の志向から「デザイン」という概念が誕生した。 デコは、すでに工業化が進展した時代、円と線の幾何学形態をモチーフとし、中でも正円と並行直線と放射の形態には、歯車と自動車と映画が背景にあると僕は考える。このころの「デザイン」は、工業と娯楽の量産資本主義をパトロンとして展開されたのだ。
朝香宮は白金の屋敷を建てるに当たって、アール・デコ博で主要な役割を果たしたアンリ・ラパンに総合的な装飾設計を依頼し、ルネ・ラリックに照明ほかガラス装飾の制作を依頼するなど、パリの本物を日本に持ち込もうとした。 そして日本では、宮内省内匠寮の権藤要吉が建築設計を担当する。権藤はすでにパリに赴いてアール・デコ博のデザインを研究済みであり、朝香宮とは意思の疎通がよかった。フランスで制作して日本に送られた部分と日本で制作した部分とのすり合わせもうまくいった。 こうしてフランスの造形デザインの先端と、日本の工芸技術の伝統が融合した、建築美術の結晶が誕生する。ここで、その装飾の一つ一つの見事さについて述べれば切りがない。通常、こういった豪華な装飾に飾られた建築は、その華美が鼻につく場合が多いが、そうなっていない。むしろえもいえぬ気品が漂っている。 洋の東西を超えて、世界にも稀なアール・デコの華が咲いたのだ。この時点で、パリとニューヨークと東京が結ばれたともいえる。そしてここからニューヨークが、最近になって東京が、「世界文化首都」への道を歩み始める。