ヤマザキマリ 乗り物での出会いに人生を変えられて。偶然の中で知り合う他人もまた、人生観や生き方を変えるかもしれない未知の壮大な世界そのものなのだ
出入国在留管理庁によれば、2019年には2000万人を超える日本人が出国していましたが、ここ数年は急減。コロナ過が明けたことで、ようやくその数も戻り始めています。一方、「旅する漫画家」として知られているのが、随筆家で画家、東京造形大学客員教授も務めるヤマザキマリさんです。実際、14歳に初めて1人でヨーロッパを旅してから今まで、国境のない生き方を続けてきたマリさんいわく「私は乗り物の中で知り合った人に、たびたび人生を変えられてきた」そうで――。 【書影】マリさんが出会いをテーマに綴った新刊『扉の向う側』 * * * * * * * ◆乗り物の中での出会い 乗り物の中で何気なく知り合った人が、自分の人生に思いもよらない展開をもたらすことがある。 私の今までの人生においても、不思議なご縁というべき乗り物の中での出会いが何度かあった。何よりまず今自分がこうしてイタリアに暮らしているのも、35年前にブリュッセルからパリへ向かう列車の中で知り合ったイタリア人の老人がきっかけである。 当時の私は14歳で、1ヶ月を掛けてフランスとドイツをひとり旅している最中だった。各地域に暮らす母の友人宅を訪ねるのが目的だったので、ひとりだけになるのは移動の間と、日本へ帰国する前の3日間のパリ滞在のみである。 とはいえ、旅人が知らない土地で最も緊張するのはやはり長距離の乗り物を使う時だろう。北ドイツの街からパリへ向かうのにブリュッセルの中央駅で降り立った私の表情には、心細さが露わになっていたに違いなかった。 そのせいなのだろう、乗り込んだ列車の中で声をかけてきたそのイタリア人の老人は、私のことを完全に家出娘だと決めつけていた。ホームで私を見かけてから、誰かに連れ去られやしないかとずっと気にかけていたという。
◆なぜか母とマルコはペンフレンドになっていた 私にしてみれば、その老人こそが怪しい人物だったが、とりあえず彼に自分の旅の意図と、ルーブル美術館を見てから帰るのだとたどたどしい英語で告げると、その表情には一気に不満が広がった。そして強めの口調で「西洋美術に興味があるのならなぜイタリアへ来なかったのだ、1ヶ月も期間がありながら」と言い、「そもそも、全ての道はローマに通ずという言葉を知らんのか」とげて大袈裟な溜息をついて見せた。 その数日後、無事に帰国を果たした私は、日本に着いたという知らせを「お前の母親から送ってもらいたい」という老人のリクエスト通り、母から彼宛に、ご心配をおかけしましたという旨の簡単な英文の手紙を送ってもらった。 間もなくして老人からも返信が届いたが、なぜかその手紙のやりとりを機に母と彼はペンフレンドになっていた。 マルコというその老人は北イタリアで陶芸工場を営み、自身も陶芸家であるということがわかった。おまけにバイオリンも嗜み、戦争中インドで捕虜になっていた時は仲間を集めてオーケストラを編成していた過去などが手紙に長々と綴られていた。それが老人と同じく戦争体験者で音楽という表現を生業としている母の好奇心をくすぐったらしい。
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