フライングのルールが変わる?飛躍的に精度向上、時の計測が突きつけた新課題
「公正さ」「公平さ」を実現
時計メーカーが次に行ったのは、公平さの実現だった。スターターからの距離の差で選手が不公平にならないよう、スピーカーを各自のスターティング・ブロックの後方に設置し、すべての選手がスタートの合図を時間差なく聞けるようにするなど、様々な改善を行った。 その後、「スタートでの公正さ」を期するために生み出したのが、ファウル判定装置だ。選手は「ヨーイ!」の掛け声で一旦身体の動きを停止するが、スタート合図の「ドン」から1000分の100秒未満に身体が動くと、フライング(英語ではFalse Start=不正出発)と判定される。 スターティング・ブロックにはセンサーが仕掛けられており、スターターのピストル音から遡って0.1秒未満に一定の重みや体重移動を検知すると、警告音をスターターのヘッドフォンに伝えるとともに、全選手の体重移動状況を記録紙に打ち出す。
しかし、近年は、このフライング判定が短距離走競技に、重大な影響を与えるようになっている。記録を100分の1秒(10ミリ秒)短縮できれば、世界記録が生まれる世界だけに、選手たちは、いかにスタートを「合図から1000分の100秒に近づけるか」に精根を使っている。 しかも、2002年までは、各選手に1回ずつのフライングが認められていたが、03年からは2度目のスタート時にフライングした選手は、初回でも失格することになった。フライングが頻発してスタートが何度もやり直しになると時間がかかるため、スポーツイベントに多大な費用を負担するテレビ局が圧力をかけた結果と言われている。そして、08年からはフライングは1回で、該当選手は即失格に改正された。 したがって、近年のスポーツ計時への関心事は、陸上短距離走で、「いかにフライングを正確に捉えるか」に集まっている感さえする。
「フライングではない」証拠が次々と……
ところが、最近、失格になった選手から、「自分はフライングをしていない」とのクレームが増え、「1000分の100秒未満でのスタート」を立証する学術論文が、あちこちから発表されるようになった。 そこで、国際陸連は腰を上げ、09年に3人のスポーツ科学者とともに、検証を行った。その結果、フライングせずに「100ミリ秒未満85ミリ秒以上」でスタートする選手が存在することを確認し、「基準を改定するならば80ミリ秒未満が妥当」との提言を行った。ただし、フライングを正確に測定するには、脚周りだけでは不十分で、全身をビデオ撮影すべきなど、判定の仕方にも注文をつけている。 簡単に論点を整理すると、国際陸連がフライングの規定を「1000分の100秒」に設定した根拠は、生理学の古典的な論文の「人間は外的刺激を感知し、大脳が判断して、身体が反応するのに必要な時間は、最低1000分の140秒かかる」との論拠だった。ところが、近年の研究によれば、人間は同じ刺激を繰り返し受けていると、情報は大脳まで行く前に、小脳で反応して身体を動かすことができ、反応時間は短縮できることが分かったのだ。 検証のための学者の1人に選ばれた大阪体育大学石川昌紀准教授は、「検証は統計的な観点であり、基準を変えるには理論的裏付けが必要だ。身体を動かすための電気信号が、『脳磁場』から本当に発せられているかなどの検証が必要になる」と言う。だが、脳磁場からの信号は極めて微弱で、身体が静止した状態で測定することも難しいだけに、動きを伴った状態での計測は事実上できない。 何ともすっきりしないが、スーパースター選手が失格して競技への関心が薄れることを避けるために、国際陸連はルールの緩和も検討しているとも伝えられている。 『時』の計測精度を高めたことで、新たな世界が見えてきた典型例だ。 ---------- 織田一朗(時の研究家)山口大学時間学研究所客員教授 1947年生まれ。71年慶應義塾大学法学部法律学科卒業。(株)服部時計店(現セイコー)入社。国内時計営業、名古屋営業所、宣伝、広報、総務、秘書室勤務を経て、97年独立。以後、執筆、テレビ・ラジオ出演、講演などで活動。日本時間学会理事(2009年6月~)、山口大学時間学研究所客員教授(2012年4月~) 著作:『時計の科学―人と時間の5000年の歴史』(講談社ブルーバックス)『世界最速の男をとらえろ』(草思社)『時と時計の雑学事典』(ワールドフォトプレス)『あなたの人生の残り時間は?』(草思社)『時の国際バトル』(文春新書)『時と時計の最新常識100』(集英社)『時計と人間―そのウオンツと技術―』(裳華房)『時と時計の百科事典』(グリーンアロー出版社)『時計にはなぜ誤差が出てくるのか』(中央書院)『歴史の陰に時計あり!』(グリーンアロー出版社)『日本人はいつからせっかちになったのか』(PHP新書)『時計の針はなぜ右回りなのか』(草思社)『クオーツが変えた時の世界』(日本工業新聞社)など多数。