伊集院静氏ら成し遂げたのは3人だけ…「直木賞とレコード大賞」二冠を次に達成しそうな「意外な人物」
では、最後に二冠を成し遂げたのは誰かというと、意外なようだが、なかにし礼である。彼のケースは興味深い。そもそも、作詞も小説も3人の中で最もキャリアが長く、初めて、レコード大賞を受賞したのも黛ジュンに提供した’68年の『天使の誘惑』。この時点では、伊集院静はもちろん、山口洋子ですらまだ作詞家になっていない。さらに『今日でお別れ』(’70年・菅原洋一)『北酒場』(’82年・細川たかし)と、3度もレコ大を獲得している。それでも、直木賞だけは縁がなかった。 自伝的小説『兄弟』が直木賞候補となったのは’98年上半期。このときは『赤目四十八瀧心中未遂』(車谷長吉)に敗れるも、翌年に上梓した『長崎ぶらぶら節』が『白夜行』(東野圭吾)や『亡国のイージス』(福井晴敏)といった強敵を退け、’99年下半期の直木賞を受賞、苦節30年の大願成就となった。「『兄弟』の僅差落選が翌年の受賞につながった」という見方が専らで、とすれば、生前、放蕩三昧で迷惑をかけられっぱなしだった実兄からの、せめてもの贖罪だったのかもしれない。 今まで二冠に王手をかけ、栄光を目前にしながら、敗れ去った作家たちをあげてみたい。 最初に思い浮かぶのは、やはり阿久悠ということになろう。彼こそ「直木賞&レコ大」の二冠達成に最初に着目し、公言もし、並々ならぬ執念を傾けていた人物である。『また逢う日まで』(’71年・尾崎紀世彦)『北の宿から』(’75年・都はるみ)『勝手にしやがれ』(’77年・沢田研二)『UFO』(’77年・ピンク・レディー)『雨の慕情』(’80年・八代亜紀)と5度もレコ大を獲得した昭和の最強作詞家は、’79年に発表した自伝的小説『瀬戸内少年野球団』が、この年の直木賞候補にノミネート。『ヒモのはなし』(つかこうへい)『羽音』(中山千夏)など強力な候補作がありながら「本命は阿久悠で間違いない」という評判がたった。 しかし、結果はまさかの「受賞者なし」。その後も『家族の神話』『紅顔期』『無名時代』等々、ハイペースで小説を発表し、’88年上半期には『喝采』、’89年上半期には『墨ぬり少年オペラ』と2度も直木賞候補にのぼるも、前者は『遠い海から来たCOO』(景山民夫)と『凍れる瞳』(西木正明)に、後者は『高円寺純情商店街』(ねじめ正一)と『遠い国からの殺人者』(笹倉明)に敗れ、結局届かず、’07年に永眠した。「阿久さんは最期まで直木賞にこだわっていた」と彼の友人から聞いたことがあるが、超難関のレコ大を5度も制しながら、直木賞だけは壁を越えられなかったのは、人生の皮肉を感じずにいられない。 阿久悠が放送作家出身だったのは今更記すまでもないが、記念すべき第1回日本レコード大賞受賞曲『黒い花びら』(水原弘)を作詞したのは、早大在学中の放送作家の永六輔だった。さらに『こんにちは赤ちゃん』(梓みちよ)でもレコ大を受賞し、その後は数々の著書も上梓。永六輔こそ最も早い時期に「直木賞&レコ大」にリーチした存在と言っていい。しかし、『大往生』(’94年)のようなベストセラーもありながら、書くのはエッセイがほとんどで小説にはさして関心を抱かず、当然、候補にのぼることはなかった。 逆のケースもある。永六輔や阿久悠と同様、放送作家を出発点に、作詞家、タレント、政治家と華麗な遍歴を重ねてきた青島幸男は、’60年代、『スーダラ節』をはじめとするクレージーキャッツのヒット曲の大半を作詞してきた。しかし、レコ大とは無縁で、対照的に、参議院議員在職中の’81年に上梓した『人間万事塞翁が丙午』で’81年上半期の直木賞を受賞している。 永六輔や阿久悠以上に二冠に最も近付いたのは、ドラマ演出家の久世光彦だろう。’70年代は『寺内貫太郎一家』『時間ですよ』などテレビ史に残る多くのドラマの演出家として名を馳せながら、並行して「小谷夏」の筆名で『ひとりじゃないの』(天地真理)『コバルトの季節の中で』(沢田研二)『真夜中のヒーロー』(郷ひろみ)等々、多くの作詞を提供してきたが、筆名を「市川睦月」に変えて提供した『無言坂』(香西かおり)がいきなりの大ヒット。’93年のレコード大賞を受賞したかと思えば、その翌年、作家デビュー作の『一九三四年冬一乱歩』が’94年上半期の直木賞候補となり、「すわ、レコ大・直木賞連続受賞か」と業界が騒然となった。 ここで受賞していたら、山口洋子、伊集院静に続く3人目の二冠達成者となっていたわけだが、『二つの山河』(中村彰彦)と『帰郷』(海老沢泰久)の後塵を拝し、あえなく落選。捲土重来とばかり’98年下半期には『逃げ水半次無用帖』で2度目の候補にのぼるも、『理由』(宮部みゆき)に敗れ、やはり栄冠はならず、’06年に他界している。