アニメキャラの魂は“声”か“絵”か 「声優変更」が「キャラデザ変更」以上に論争を呼ぶ理由
絵は集団作業、声は個人作業
アニメ制作は集団作業で、ひとりのキャラクターを描くためにたくさんのスタッフが関わっている。原画だけでも数多く存在するし、さらに中割りの動画、色を塗るのは仕上げの仕事だ。たくさんの人間が精魂込めて絵のキャラクターを動かすために技術を注いでいる。 多くの人間が同じキャラクターを描くために、アニメにはキャラクターデザインという役職が存在する。細かいキャラクターの外見の設定の共通理解を作っておかないと、絵を描く人間が変われば、全く違うキャラクターになってしまうからだ。マンガを原作とする場合、原作の絵を多くのアニメーターが共通して描ける絵柄へと変更し、動かすことなども考えて線を簡略化するなど様々な工夫をこらしていく。その方針は監督やキャラクターデザイン担当者が決めていく。つまり、マンガからアニメにする時点ですでに絵柄は変わっているのだ。 それでも視聴者はアニメに登場するキャラクターを、マンガと同一だと認識する。絵柄が変わっても同じキャラクターだと視聴者が認識できるのは、キャラクターの記号的特徴をきちんと引き継いでいるからだ。 髪型や色、目の大きさや形、その他の顔のパーツ、身長、体格、服装などそうした記号的な特徴の組み合わせでアニメのキャラクターは成り立っている。描く人間によって絵柄の癖や方向性が異なっても同じキャラクターだと認識できるのは、このマンガ・アニメの記号的な表現スタイルによるところが大きい。記号的な表現の利点は二次創作を考えるとわかりやすい。まるで異なる絵柄であってもキャラクターの外見的特徴を備えていれば、同じキャラクターと認識しうる。 そもそも、アニメやマンガのキャラクター表象はそういう記号性を前提にしているので、絵柄が変わることに寛容と言える。大量のスタッフによって作られることを前提にしているので、その寛容さがないと作れないとも言えるかもしれない。 同じ作品の中でも、二頭身にデフォルメしたりといった絵の可変性を前提にした演出テクニックも多数あるため、視聴者も「絵が変わる」ということに対してある程度の寛容性を持っているというか、それが前提であると認識していると思われる。 そもそも、それがアニメーションという表現の本質でもある。モンタージュ理論で有名なセルゲイ・エイゼンシュテインは、自由に身体を伸縮させるディズニーのアニメーションを見て、そうした形状変化を許容するのがアニメーションの持つ魅力であるということを「原形質性」という言葉で表した(※)。 ただ、かつてのテレビアニメは各話で作画監督がそれぞれの個性を発揮して、エピソードごとに絵柄が異なることも多かったが、近年は作画監督の上に総作画監督を置いて、全話の絵柄を統一する方向で作られることが多くなっており、絵柄の違いを楽しむという作法自体は減っているかもしれない。 アニメのキャラクターの絵がいつも違う人間によって描かれている一方、声を演じているのは常に同一人物だ。 その点で原形質的に変化しうる外見の記号的特徴とともに、キャラクターの同一性を担保しているのは声であると言えるかもしれない。実際、同じ声優が毎週声の芝居を演じ、絵のほうは毎週違うアニメーターが描いているということは、魂の同一性という観点で言えば、声の芝居を司る声優のほうが魂を担っていると解釈するのは、さほど不自然ではないかもしれない。 それゆえ、声優の変更は絵柄の変更以上に大きな争点となりやすいのだろう。