マーケティング戦略に長け、他の画家との差別化に成功したフェルメール、卓越した技法とモティーフに隠された意図
■ 画中に地図が多く描かれている理由 技術以外にフェルメールの特徴を挙げるとしたら、市場の要求を感知することでしょう。つまりマーケティング戦略に長けていたのです。 実在しない人物の頭部を描いたものは「トローニー」といって、同時代のオランダの画家も描いていますが、多くは男性でした。《真珠の耳飾りの少女》(1665-66年)でフェルメールが女性を描いたのは市場の需要に応えるという戦略だったのでしょう。フェルメール作品の主要人物はほとんどが女性なのも同じ理由だと思います。 また、フェルメールが頻繁に描いたモティーフに室内の壁に掛けられた地図と画中画があります。これには理由がありました。 地図は世界を相手に商売をしていた17世紀のオランダでは欠かせないもので、アムステルダムは地図製作の中心地でした。 実用のためばかりではなく装飾用の地図も出版され、市民たちは絵のように壁に掛けて楽しみました。このような背景から、現存するフェルメール作品中《士官と笑う女》(1658-59年)、《窓辺で水差しを持つ女》(1662-65年)、《リュートを調弦する女》(1662-65年)、《青衣の女》(1662-65年)、《絵画芸術》(1666-67年)、《恋文》(1669-71年)の6作品の壁に地図が掛けられています。 また、X線調査で《牛乳を注ぐ女》と《真珠の首飾り》(1662-65年)の壁にも地図があったことが判明しました。市民に親和性がある地図を多く取り入れたのはまさしくマーケティング戦略だといえるでしょう。 地図製作者としてヨーロッパ随一の地位を築いたのがアムステルダムのブラウ家です。《士官と笑う女》、《青衣の女》、《恋文》の地図は、1620年に刊行されたブラウ家の初代ウィレム・ヤンスゾーン・ブラウが描いた実際のホラント州の地図であることがわかっています。
■ 画中画が多い理由 また、多くのフェルメール作品の室内の壁には絵が掛けられています。絵の中の絵を画中画といいます。17世紀の絵画にはこのような画中画を描いたものが多数あります。一般市民にまで絵画収集が流行していたので部屋の中に絵を飾っている家が多かったことを物語っています。 フェルメール作品の《合奏》(1665-66年)と《ヴァージナルの前に座る女》(1675年頃)の画中画は義母が所有していたファン・バビューレンの《取り持ち女》でした。《ヴァージナルの前に立つ女》(1669-71年)と《稽古の中断》(1660-61年)のキューピッド(チェーザレ・ファン・エーフェルディンゲン画)、《手紙を書く女》(1665-66年)の楽器、《信仰の寓意》(1673-75年)の磔刑(ヤーコブ・ヨルダーンス画)は、没後の財産目録からフェルメールが所有していた作品だとされています。 このほかの画中画には聖書の物語や肖像画、風景画、海景画が描かれている作品があります。これらの絵もフェルメールが所有していたか、パトロンや注文主から提供されたものだと推定されます。 キューピッドの画中画に関しては、近年《窓辺で手紙を持つ女》(1658-59年)が話題になりました。1979年の10線調査で壁にキューピッドが描かれていることが判明し、これは他の絵の例のように、フェルメール自身が消したと考えられてきました。 しかし、2017年の調査によってフェルメール以外の人物が消したことがわかったため、元の絵に戻そうと上塗り層を取り除く修復を施しました。修復後の作品が2022年2月来日し、大きな話題となったのでした。修復されたキューピッドは仮面を踏みつけていることから、偽善や不義に打ち勝った真実の愛という意味を持ち、女性が読んでいる手紙の内容を示唆するものだと考えられています。 《ヴァージナルの前に立つ女》(1669-71年)の画中画の仮面を踏んでいないキューピッドは、恋人を待っているという意味を持っています。画中画は単に装飾だけではなく、語らせることで、絵にもっと深い意味を与えることになったのです。 「語る」画中画には、当時オランダで大人気だった「エンブレマータ」という文学がその背景にあります。たとえば「ただ1人に」といった短いモットーがあり、その下にキューピッドの寓意画像、さらに解説があるという3つの部分で成り立っている形式を「エンブレム」といいます。それを集めた書籍が「エンブレマータ」です。 《窓辺で手紙を持つ女》の画中画のキューピッドはオットー・ファン・フェーンのエンブレマータ、『愛の寓意画集』の中に収められている寓意画像と関連しており、「恋する者はただ1人の人を愛さねばならない」という意味が込められていることから、彼女が読んでいるのは恋文だと思われます。 ほかにも《手紙を書く女と召使》(1670-72年)の画中画には旧約聖書の物語で赤ちゃんのモーセが川で発見される場面が描かれています。この主題には「和解」の意味が込められています。ですから女性が一生懸命書いている手紙は和解したいというような内容だと想像させます。このようにフェルメールは画中画を絵に大いに利用して、作品が放つメッセージ性を膨らませていったのです。 次回はなぜ手紙と楽器を頻繁に描いたのか、寓意の読み解きについて解説します。 参考文献: 『フェルメール論 神話解体の試み』小林賴子/著(八坂書房) 『フェルメール作品集』小林賴子/著(東京美術) 『もっと知りたい フェルメール 生涯と作品』小林賴子/著(東京美術) 『西洋絵画の巨匠 (5) フェルメール』尾崎彰宏/著(小学館) 『フェルメール完全ガイド』小林賴子/著(普遊舎) 『フェルメール展2018公式図録』(産経新聞社) 『ネーデルラント美術の魅力 : ヤン・ファン・エイクからフェルメールへ』元木幸一・今井澄子・木川弘美・寺門臨太郎・尾崎彰宏・廣川暁生・青野純子/著(ありな書房) 『西洋絵画の歴史2 バロック・ロココの革新』高階秀爾/監修 高橋裕子/著(小学館) 『1時間でわかるカラヴァッジョ』宮下規久朗/著(宝島社)
田中 久美子