6年前の震災「この事態を伝えることが使命」2人で取材敢行した月刊タウン誌
2011年3月の東日本大震災で被災した岩手県宮古市のタウン誌「月刊・みやこわが町」にメディア研究者らが注目しています。同誌は被災直後の記録を特別号や保存版として2度にわたり発行、地域に寄り添った機敏な報道姿勢を見せました。普段は社長と記者の2人だけで地域の文化を伝える「文化系」の雑誌。6年前、突然の混乱の中で住民の目と耳として困難な取材を敢行した背景を、現地に探りました。 【写真】「一生分泣いた」市民の思いも詰まった震災特集 2人だけの月刊タウン誌
震災で雑誌が発行不能に
「みやこわが町」は1977(昭和52)年に宮古市で創刊。B5判60ページ、「陸中海岸を代表するコミュニティ月刊誌」を標榜し、人口5万5000人余の宮古市民を中心に約3000部を発行してきました。現在は2700部ほどです。 初代社長の駒井雅三(こまい・まさぞう=故人)氏は、ショッピング情報などで一時全国に広がったタウン誌とは一線を画して「地域文化の創出」を掲げました。地元の文化人らも多数誌面に登場。現在は駒井氏の遺志を継いだ橋本久夫社長(61)と若手の記者が編集・営業のすべてを担当しています。 2011(平成23)年3月11日の震災で、宮古市は400人余が死亡。住宅なども9000戸以上の被害があり、「みやこわが町」は発行不能になりました。スポンサーも壊滅状態で、3月11日発行予定だった雑誌も配本できませんでした。
思いがけない市民からの声
途方に暮れながらも橋本社長らは「この災害は記録しなければいけない」と、当然のように取材を開始しました。発行頻度の少ない月刊誌とはいえ、情報伝達の手段を持つ者として「この事態を伝えていくことが使命だと、そのときすぐに思った」と語ります。 記者と2人でカメラを肩に飛び回る毎日。被災地の惨状のつらい取材を続けながら、橋本社長は「いずれ会社も雑誌もつぶれてしまうかもしれないと半ば覚悟した」。 それでも頑張れたのは、市民からの思いがけない連絡がきっかけでした。雑誌の購読者ではない市民から「雑誌はいつ発行するのか?」との問い合わせが相次いだのです。街のメディアへのすがるような期待。 未曽有の災害に「宮古はどうなっているんだ」と電話の向こうの声は切迫しています。橋本社長は「雑誌はいつ出るんだ、早く情報を……という、それは私たちに対する市民のとても強い反応だと感じました」。