「こびない、いじけない」冨永愛42歳がすっぴんで語った、コンプレックスだらけだった頃
ひとりぼっちでオーディションを受けてまわった
私が初めてキャスティングに参加したのは17歳のときのニューヨーク・コレクションだ。あのときはもう、とにかく不安だった。 エージェントがやってくれるのは、キャスティングのスケジュール調整だけ。「明日はここと、ここと、ここと、ここに行って」という指示が書かれたメモを渡されるが、誰もついてきてはくれない。ニューヨーク、ひとりぼっち。 当時の私は英語力ゼロで、イエスとノーしか話せない。自動翻訳機なんてドラえもんの世界にしかなかった時代だ。話せないのはもちろん、聞き取れもしない。そんな状態で、たった一人で会場をいくつもまわってオーディションを受けるのだ。 グーグルマップだって、もちろんない。ホテルで、前夜に紙の地図を広げて会場の場所を確認し、効率よくまわる方法を考えてから眠った。
負けない、負けるもんか
多い日で1日に15カ所のキャスティングをまわる。だいたい、全部落ちる。翌日も受ける。また落ちる。ヒールの靴はバッグに入れてスニーカーで歩きまわっているのに、スニーカーさえボロボロになる。それでも、また落ちる。 キャスティング会場での対応がまたひどい。大量のモデルをさばくのは大変なのだろうけれど、ブック(ポートレートなどをファイルした資料)を渡してもほとんど見てももらえず、「フン!」みたいな対応をされることも少なくない。無言で手をヒラヒラ振って「もう帰りなさい」みたいに指示されたこともある。 彼らにとって、キャスティングを受けに来る若いモデルなんて、人間以下の存在なのかもしれない。でも私たちは、ちゃんと傷つく。傷ついた心を抱えながら、切り替えて、切り替えて、次の会場に向かう。 負けない。負けるもんか。そんな思いばかりがどんどん強くなっていく。こびない、泣かない、いじけない。気持ちは常にファイティングポーズだった。 それがよかったのかもしれない。初めてのニューヨーク・コレクションでは、13のショーに出演できることになった。これはかなりの快挙だったようで、事務所の人が目を丸くしていたのを覚えている。