一橋慶喜はなぜ尊王精神を持ち続けたのか? 高貴な出自と将軍就任までの経歴
260年以上続いた江戸幕府最後の将軍として登場するのが、15代将軍・徳川慶喜だ。彼は御三家のひとつである水戸徳川家に生まれ、その後御三卿のひとつである一橋家の9代当主となる。徳川家の生まれでありながら、終生尊王精神を持ち続けていたのには、慶喜の出生が大きく関わっていた。 ■期待を背負った幕府と朝廷のサラブレッド 慶喜は、天保8年(1837)に、江戸・小石川にあった水戸藩の上屋敷(いまの東京ドーム一帯)で生まれた。父は水戸徳川家第9代当主の斉昭(なりあき)、母は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)の娘・吉子であった。つまり、朝廷と幕府双方のトップにつながる血筋の子として誕生した。 そして、水戸徳川家が、第2代藩主の徳川光圀(みつくに)以来、尊王精神にあふれる家であったことを考えれば、慶喜はごく自然に尊王精神を植えつけられて育ったといえる。事実、慶喜の全生涯を通して、天皇絶対主義ともいうべき尊王精神の持ち主として終始した。 幼少期の慶喜に関して留意しておくべきことは、誕生していまだ7カ月にも満たない時点で、江戸から水戸へ移ったことである。これは、父の斉昭が子供を華美な江戸の風俗に染まらせないために選んだ方針だった。以後、慶喜は一橋家を相続するまで水戸で育つことになる。そのため、彼は江戸では考えられないことであったが、水泳・弓道・馬術などが得意な、いわゆる体育会系に属するきわめて活動的な少年に成長する。 もっとも、活発さが目立つあまり、少年時代から、規格外のところがあったようである。このことを見抜いた父斉昭の言葉が残されている。それは、「将来名将となるか、はたまた手に負えない存在となるか、そのどちらかだ」というものであった。 慶喜が中央政局に登場してくるのは、文久期(1861~63)のことであった。この文久期最大の特色は、これまで国政の場から排除されてきた朝廷(天皇)が国政を担当する一員(しかも重要な)として浮上してくることである。そして、こうした動きを受けて、朝廷関係者の幕府政治への露骨な介入、および諸藩のなかに自分たちの声を国政にじかに反映させようとする動きも一気に噴き出してくる。その動きの先端に立ったのが、長州・薩摩の両藩であった。 慶喜との関係で重要な動きを見せたのが薩摩藩であった。同藩は、井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺以来、旧来の幕府独裁政治がもはや破綻したとの認識のもと、朝廷と幕府が協力して挙国体制を築くことが、いま現在直面している対外危機を乗り切るうえで、なによりも重要だとした。そして、そのためには、旧一橋党の赦免・復帰と、井伊グループの一掃、ならびに幕府・朝廷双方の根本的な改革が不可欠だとした。そこで求められたのが、一橋慶喜の将軍後見職への就任であった(もうひとつが越前福井藩主松平春嶽の大老職への就任)。 こうした方針を確立した薩摩藩は、島津久光(藩主茂久の実父で、後見人として事実上藩政を掌握していた)が、文久2年の4月に多くの兵士を引率して上洛し、以上のプランを実行することを朝廷上層部に納得させた。ついで勅使に任命された大原重徳を護衛して江戸に下り、嫌がる幕府首脳に自分たちの要求を強引にのませた。 さて、こうした経緯で慶喜は将軍後見職となり、ついで京都に移り住むようになったあと、禁裏御守衛総督(将軍後見職を辞して就任)として、会津・桑名両藩と協力しながら宮中を掌握する一方で、主に長州藩に代表される攘夷派と対決する立場を貫くことになった。そして、元治元年(1864)に発生した禁門の変で、藩兵が御所に向かって発砲したことで「朝敵」となった長州藩を征討する役割を担うことになる。 監修・文/家近良樹 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
歴史人編集部