『極悪女王』に描かれる「昭和の女子プロレス」が、いまも輝き続ける本当の理由─。
限りある命だからこそ熱くなれた
『極悪女王』で描かれていた当時の女子プロレスには、暗黙の決まりごとがあった。 「25歳定年制」。 その年齢に達したらプロレスをやめなければならないと明確に定められていたわけではない。だが25歳が近づくと、会社(全日本女子プロレス)の上層部から引退を促される。 そのことを選手たちもファンも理解していた。 当時は女子レスラーの選手寿命は短かった。 ビューティ・ペアのマキ上田は、75年3月にデビューし79年2月に引退している。リングで輝いたのは僅か4年足らず。ジャッキー佐藤もデビューから6年後にリングを下りた。ジャガー横田とデビル雅美は約9年、ジャンボ堀が7年、大森ゆかりは8年。長与千種、ライオネス飛鳥、ダンプ松本は同期で80年デビューだが、彼女たちも年号が平成に代わる前後に全女のリングを去っている。 限りあるレスラー生命。 だからこそ、選手たちはリング上で燃え尽きようとしていた。長与も飛鳥もダンプも。その想いはファンに伝わる。 そこに熱狂が生まれていたのだ。 ところが、変化が生じた。 『極悪女王』最終話でも触れられていたが、それまで全日本女子プロレスが独占していたジャンルに新団体が参入する。86年夏の「ジャパン女子プロレス」が旗揚げ。そこに引退していたジャッキー佐藤とナンシー久美が加わった。 私は「ジャパン女子プロレス」の担当記者になった。そして、同団体の代表だった椎名勝英氏に尋ねた。 「引退していたジャッキー佐藤、ナンシー久美を復活させた。全日本女子プロレスが敷いてきた『25歳定年制』をどう考えるのか?」 椎名氏は、こう答えた。 「ジャッキーもナンシーも、まだ20代だぞ。一番いい時期に何でプロレスをやめなきゃいけないんだ。全女さんが選手を25歳で引退させるなら、ウチがその選手たちの受け皿になるよ」 これにより「25歳定年制」は崩壊した。 (育てた人気選手をライバル団体に持っていかれてはたまらない) そう全日本女子プロレス首脳が考えたからだ。 以降、新団体が次々と誕生し女子プロレスラーの選手寿命は延びた。 選手たちにとっては、よかったのかもしれない。好きなプロレスを30代、40代、50代になっても続けられる。だがそこに、限りある時間に命を燃やすプロレスは存在しない。 限りある命だからこそ熱くなれた─。 『極悪女王』に描かれる「昭和の女子プロレス」がいまも輝き続ける本当の理由は、そこにこそあるように感じる。 ■ 近藤隆夫 こんどうたかお 1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等でコメンテイターとしても活躍中。『プロレスが死んだ日。~ヒクソン・グレイシーvs.高田延彦20年目の真実~』(集英社インターナショナル)『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文藝春秋)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。
近藤隆夫