28年間のスカウト人生は岡田彰布の父親にワインとアジの開きを手土産にしたことから始まった【伝説の凄腕スカウトは見た!】
【伝説の凄腕スカウトは見た!】#1 「僕は好きな選手しか取らなかった。好きだからいいなと思う。素直にストレートに行く。最後の会議で推すか推さないか、それしかないんです」 【写真】センバツでスカウトの評価を上げた U18代表合宿参加勢「投打4人」の名前 「選手は取ってみないとわからない。取らないと何も始まらない。スカウトである以上、会議で指名しても入団するのかしないのかを断言できないといけない。他のスカウトから指名を反対されても、きちんと魅力と獲得する根拠を主張しないといけない。プロで活躍してから、『いい選手だと思っていた』と言うのはズルいですから」 現在、長野・飯田ボーイズで中学生を指導する鈴木は、1979年から2006年までの28年間、西武ライオンズでスカウトを務め80年代に監督、管理部長として西武黄金時代の礎をつくった根本陸夫氏の下でスカウトのイロハを学んだ。 主に関西と北信越の一部を担当し、清原和博、和田一浩、中島宏之ら多くの主力選手の獲得に奔走。獲得には至らなかったものの、岡田彰布、松井秀喜ら逸材も追った。 昭和、平成を股にかけた名物スカウトが、担当選手とのエピソードを振り返りつつ、独自のスカウティング術を明かす。 「岡田彰布の家に行け」 上司から初仕事を命じられたのは79年2月。クラウンライターライオンズが西武に身売りされた直後のことだった。 71年ドラフト11位で阪神に入団した鈴木は、76年に太平洋へ移籍。球団は翌77年にクラウンライター、そして79年に西武へと名前を変えた。 鈴木は一軍通算96試合出場にとどまっていたこともあり、西武への身売りが決まった78年10月、当時の根本陸夫監督の意向で、同年限りで現役を引退。大東文化大時代の恩師である岡田悦哉二軍監督を通じて、「スカウトか審判か、どっちかをやれ」と告げられ、スカウト転身を決意した。スカウトのスの字もわからない中、伊豆で行われたキャンプに同行した鈴木は言う。 「根本監督は、宿舎の下田プリンスホテルでスカウト陣に『今日からスカウトをやらせる。何も教えるな。好きにやらせるから』とだけ伝えて。実際、好きなようにやらせてもらいましたけど、前年まで選手だったし、就任当初はいったい何をやればいいのかという感じでした」 一軍が2次キャンプ地の米国に向かったタイミングで鈴木は、79年ドラフトの目玉であった早稲田大学の岡田彰布(現阪神監督)の両親に会うため、新幹線で大阪に向かった。鈴木にとっての初仕事。しかし、岡田の実家の住所も電話番号も、どこの大学に通っているのかさえも知らなかった。 「北陽高時代の岡田を担当していた浦田直治さん(チーフスカウト、球団本部長を歴任)に住所を聞いたものの、『実家は工場をやっていて、大阪の玉造駅からは近いから、タクシーに乗るほどじゃない』と。『目印はあるんですか?』と聞いても、『たしか、駅の出口を出てすぐのところに店があって……』と要領を得ない(笑)。とにかく向かう途中にワインを数本と、アジの開きを抱えて玉造駅へ向かいました。何とか自宅へたどり着きましたが、アポもない上に、挨拶といっても、初めてのことで、いったい何をやればいいかわからない。不安はありましたけど、お父さんは僕のことを気に入ってくれたのか、結局2、3時間は滞在しましたね」 岡田の父親は紙加工業の経営をしていて、2階が事務所だった。 「お父さんは熱狂的な阪神ファン。後日、球団後援会の有力者だと聞きましたが、2階に通されて『鈴木さん、息子のビデオを見てくれ』と。東京六大学の岡田のプレー集を見て。前年にたまたま、早大の試合をテレビで見ていたんで、よかったなと(笑)。アルバムもたくさん見せてもらった。明星中学時代は週2回、学習塾に通わせていたとか、東京では飲み代だけで毎月8万円もかかる、なんてグチまで話してくれました。僕が阪神の選手だったのは知ってたか? その話はまったく出なかったから、知らなかったと思います(笑)」 初仕事ながら手応えを得た鈴木は、その後も岡田を調査。西武は岡田の指名拒否はないと判断し、79年ドラフトで1巡目に入札した。6球団競合の末に阪神がクジを引き当て、涙をのむ。このドラフトで鈴木は河合楽器の後輩にあたる捕手の大石友好(西武など)を3位指名。担当第1号選手となった。 岡田の父親と和気あいあい語らった6年後の1985年ドラフト。鈴木は自身が担当したPL学園高の清原和博(西武、巨人など)を6球団競合の末に1位指名した。その直後、根本陸夫監督と大阪・岸和田の清原宅へ挨拶に向かったものの、飲み物を口にすることさえはばかられる重苦しい空気に襲われた。(つづく) ▼鈴木照雄(すずき・てるお) 1946年、長野・阿智村生まれ。塚原学園天竜高(現松川高)、大東文化大、河合楽器を経て、71年ドラフト11位で阪神入団。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍。78年クラウンライターが西武鉄道へ身売りするタイミングで引退、スカウトに転身。2006年までの28年間、関西と北信越の一部を担当。担当選手は清原和博、垣内哲也、和田一浩、松井稼頭央、中島宏之、栗山巧、中村剛也、炭谷銀仁朗ら逸材多数。現在は長野・飯田ボーイズの監督を務める。