ヤマト王権が“惨殺”した「サハリンからの渡来人」とは? 「北海道の利権」をめぐり… 【古代史の真実】
7世紀中ごろ、安倍比羅夫(あべのひらふ)によって粛慎(しゅくしん/みしはせ)なる北方の人々が征伐されたことが『日本書紀』に記されている。それは、北海道在住の人々の権益を守るためとしながらも、その本当の理由は違っていた。いったい、どのような目論見によるものだったのだろうか? ■「鬼」と呼ばれて惨殺された「まつろわぬ民」 かつて、東北の民・蝦夷の頭領・アテルイが、悪路王なる鬼と見なされて恐れられたことがあったことを覚えておられるだろうか? 蝦夷とは、そもそも、東北の地で平和に暮らしていた民であった。それにもかかわらず、「王権にまつろわぬ」との理由で、「荒々しくも情を理解せず、教養や文化に欠ける」野蛮な種族として蔑まれた。そればかりか、大軍を送り込まれて強引に王権の一部に組み込まれてしまったことは、かえすがえすも不運であった。 討伐する側の坂上田村麻呂は英雄視されてその業績が華々しく語り継がれてきたが、討伐された側の民を率いていたアテルイなる御仁は、降伏して自ら出頭してきたにもかかわらず、公卿たちから「野性獣心にして叛服(はんぷく)つねなし」と見なされて惨殺。その理不尽さを声高に叫ぼうにも聞く耳なしとなれば、恨んでも恨みきれなかったに違いない。 その遥か昔から、ヤマト王権が勢力を拡大するに際し、抵抗した人々はおしなべて「土蜘蛛」と称されて蔑まれてきた。彼らもまた、無残にも惨殺されてしまったようである。その記録が、『日本書紀』なる正史に臆面もなく記されているのはなぜか? それこそ、王権側の支配者層が、彼らを人とも見なさず、まるで悪逆非道の鬼でも退治するかのような扱いで “成敗”していたからである。 前置きが長くなったが、本題に入ろう。今回取り上げるのは、蝦夷征伐に功績を成したとされる坂上田村麻呂から遡ることおよそ1世紀。その頃に活躍した、安倍比羅夫(あべのひらふ)なる御仁にまつわるお話である。 安倍比羅夫は斉明天皇の御代に、3年もの長きにわたって蝦夷征伐に尽力したことで知られているが、彼が平定したのは、蝦夷だけではなかった。 ■サハリンからの渡来人を征伐した本当の狙いは? 当時(7世紀中頃)の東北以北の情勢に目を向けてみよう。この頃の東北地方は蝦夷が住するところであったが、その北の北海道は、縄文人の後裔とも言える続縄文人(擦文人)が中南部を中心に暮らしていた。彼らは秋から冬にかけて、鮭や鱒などを採るばかりか、稗や麦、栗などの雑穀を栽培しながら暮らしていたようである。 その同時期に、北海道北東部の沿岸部を拠点としていたのが、粛慎(しゅくしん/みしはせ)人なるサハリンからの渡来人であった。彼らが春から夏の一時期に拠点としていたのが北海道西海岸に浮かぶ奥尻島。ここを拠点として佐渡島の北の御名部という海岸にまで押し寄せて漁をしたということが『日本書紀』欽明天皇5年12月の条に記されている。 おそらくは彼らの外見が、目にも荒々しく映ったからだろう。島民たちは、彼らのことを人とは見なさず、「鬼」と称していたというところを気に留めていただきたいのだ。 ちなみに、島民たちはこの時、何ら実害を受けたわけではなかった。その風貌が恐ろしく、近寄りがたかっただけであった。それにもかかわらず、斉明天皇4(658)年、突如、越の国守・安倍比羅夫が粛慎征伐に動き始めた。 戦いは3年にもわたるが、その間、王権側になびいてきた蝦夷の手引きによって粛慎を追い詰め、妻子までも殺害せざるを得ないような状況にまで追い詰めたことも記録されている。 彼らが一体、どの程度の悪逆非道を働いたのか? それはわからない。それでも、比羅夫が彼らを追い詰めた理由は考察できる。 それは、王権側が北海道在住の先住の民に加勢すると見せかけながらも、その実、王権側がこの地域で繰り広げられてきた北方交易を自らの管理下に置きたかったからである。結果として王権側は、ヒグマやカモシカの毛皮、オオワシの尾羽など、さまざまな北方の品々を容易に手に入れることができるようになったのだ。 地元民から「鬼」と恐れられた粛慎人ばかりか、その排除に手を貸した続縄文人や蝦夷たちもまた、王権側の目論見にしてやられたということか。 冒頭に記したアテルイが率いた蝦夷も然り、土蜘蛛も然り。最後に記した粛慎人もまた、さしたる落ち度もないまま鬼に仕立て上げられて征伐されてしまった。これが勝ち組(王権側)が語るところの日本の歴史かと思うと、何だか悲しくなってしまうのである。
藤井勝彦