須藤元気氏は東京15区補選で大善戦…地元で居酒屋を50年経営する実父(72)が語る“我が息子”「負けて良かったのかもしれない」という真意
入場パフォーマンスは恥ずかしかった
正英:小中学校の時は、やりたいことは何でもやれと育てたんです。習い事も何でもやらせたし、飽きれば辞めていいとね。剣道、ボクシング、ギター、三味線、トランペットもやったかな。でもね、中学卒業の頃、親に内緒で少年自衛官(現・陸上自衛隊高等工科学校)に申し込んだんですよ。いきなり自衛隊の人がウチに来て、こっちは何も知らされていなかったからびっくりしました。さすがにあの時は、高校を出てからでも遅くはないだろうと説得しました。 ――元気さんが高校に進学して始めたのがアマチュアレスリングだ。 正英:他の子は中学の頃から始めているらしいんですけど、関東一高レスリング部の恩師・七尾秀敏先生に認められて、その気になったんでしょうね。すぐに東京都で2位になり、国体にも出たし……。小中学校では好きなことをやらせていましたが、「高校・大学の7年間の過ごし方で、その先が変わってくる」と元気によく言っていました。 ――格闘家になったのは自然な流れですか。 正英:そうですね。大学時代、96年の全日本ジュニアオリンピックで優勝し、アメリカで修行していましたから。帰国して総合格闘技団体でデビューしましたが、入場のパフォーマンスはちょっとね……。私の世代は力道山でしょ、みんな真剣に歩いて入場していたわけですよ。ところが元気は頭にライトつけたりして、こっちが恥ずかしくなっちゃった。 ――元気さんのお母さんはどうだったんですか? 正英:女房は一回も元気の試合を見たことがないですよ。心配性だからね。 ――2006年、元気さんは格闘技からの引退を表明する。 正英:あいつは結構、先読みが早いんですよ。当時は毎年、大晦日に複数のテレビ局で格闘技を放送していましたが、「そろそろピークアウトが来る」と言っていました。次は何をやるのか尋ねると、「わかんないけどやってみる」と言っていましたね。 ――09年、パフォーマンスユニット「WORLD ORDER」を結成する。 正英:何だかよく分からなかったけど、話題になったそうだからね。格闘技で10年、WORLD ORDERで10年、第3の人生をどうするのかと思ったけど、政治家とは思わなかった。「本当に出るの?」って聞きましたよ。