知事への「不信任」可決の事例は? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
長野・田中康夫氏は失職後の出直し選で圧勝
都道府県知事では戦後、岐阜、長野、徳島、宮崎の4件がありますが、いずれも議会解散を選択した例はありません。 1976年の岐阜県知事はわいろをもらったとして(後に有罪確定)検察に起訴(裁判にかける)されてしまいました。与党の自民党も「刑事被告人の知事」をさすがにかばいきれず不信任決議可決へ動き、知事は辞職しました。 2000年の長野県知事選挙は前任が後継とした候補に自民と民主・公明の多くが支援。加えて県内市長村の大半の首長も同調しました。普通ならば圧勝です。共産党も候補を立てました。そこに主要政党の支えがほとんどなかった作家の田中康夫氏が参戦して快勝します。前述のように首長と県議会議員は別の選挙で選ばれるため田中県政の議会は「オール野党」状態でスタートします。国政の場合、首相選びは衆議院の議決が優先されるので、多数派が首相を決めるのに対して首長は議会をすべて敵に回したような人物でも住民に支持されれば当選できるのです。これが不信任決議を可決させる理由にもなり得ます。 果たして田中知事は「脱ダム宣言」など議会の圧倒的多数が嫌がる政策を進めようとしたために2002年に不信任決議可決となりました。この時に知事は失職を選び、出直し知事選で圧勝しました。国政で首相が不信任されて総辞職(失職に相当)を選んだのは1回だけ。これも二元代表制ならではで「議会が正しいか私が正しいか」を直接民意に問えるからこその政治決断でした。 2001年の徳島県知事選挙で3選された自民・公明などが押す知事が汚職で逮捕され辞職したのに伴う02年の知事選で議会では圧倒的少数の民主・社民・共産が推薦した候補が勝利して田中知事と似た「ほぼオール野党」状態となりました。群を抜く勢力を誇る自民系2会派は翌年「議会軽視」「県政停滞」などを理由に不信任を突きつけ、小会派に加えて公明党の賛同を得てギリギリ4分の3を確保して可決されました。知事は失職を選択して出直し知事選に臨んだものの自公の押す候補に敗北しました。 2006年、宮崎県の幹部らが県の発注する事業を特定の会社に落札させる「官製談合」事件が勃発し、幹部らが逮捕されて県庁も家宅捜索されました。次第に知事の関与が疑われるようになり(後に逮捕・起訴。上告中に死去)議会が法的拘束力のない辞職勧告決議を知事に突きつけるも潔白を叫ぶ知事に辞める気配がなく、ついに不信任決議が可決されました。 知事は議会解散を「県政の混乱を招く」と否定する一方で、辞職も「(事件への)関与を認めたと思われかねない」と否定。後は失職あるのみかとの観測が多数でした。ところが「県政混乱の長期化を避けるため」と急転直下の方針転換で辞職しました。心変わりの理由はいまだハッキリしておらず、諸説紛々。ただ失職が12月12日で辞職が3日。知事逮捕が8日であったところから推察すると何らかの自身への捜査状況が入ってきて失職まで待つと「現職知事逮捕」になってしまうのを恐れたのかもしれません。