被災地で願う、五輪アスリートの活躍。能登、福島から、ゆかりの選手に届けエール
4月の日本選手権は、輪島市にとって春を告げる大会。市によると、市陸上競技協会が日本陸連に働きかけ、1972年に初めて開催された。2010年からは、市民が同じコースを歩く「スピードウォーク大会」も実施している。競歩を身近に感じてもらう取り組みで、協議の裾野を広げる役割を担ってきた。 大会には全国から選手や応援団、観光客らが集まり、例年であれば街は一気に華やぐ。しかし、今年は地震で中止を余儀なくされた。石川陸上競技協会会長の宮地治さん(72)は長く大会に関わってきた、それだけに中止は苦渋の決断だった。 地震が起きた元日、宮地さんは輪島市の自宅で子どもや孫ら15人と穏やかに過ごしていた。夕食の準備を始めた頃、最初の揺れが襲った。余震が相次ぎ、家の柱につかまったり、テーブルの下に潜ったりして耐えた。 大津波警報が発令されると、テレビから聞こえる「高台に逃げて」との叫びに押され避難した。「道路が波打って豆腐みたいに揺れるんだ。この世のことと思えなかった」
避難先の高台からは輪島朝市がよく見えた。火の海だった。日本選手権のコース周辺の家は倒壊し、道路は割れ、マンホールが飛び出していた。「まずは普通の生活に戻さないと」。翌日、状況を日本陸連に伝えた。協議を重ね、中止を決定した。 地震から間もなく7カ月が経過するが、市内には今も倒壊した家屋やがれきが残る。宮地さんはパリからの朗報を心待ちにしている。「輪島で鍛えた選手の健闘を祈っている。パリ五輪での活躍がわれわれの励みになる」 ▽【福島】過酷な経験、力に変えて 福島県立富岡高(富岡町)=2017年に休校=は、バドミントンの強豪で知られていた。2006年春、普通科から国際・スポーツ科に衣替え。富岡第一中などと連携した中高一貫教育に力を入れ、全国から生徒を集めて選手育成を進めた。 元実業団選手の大堀均さん(56)は、監督として富岡に招かれた。各地から預かった選手を指導する中、東日本大震災を経験することになった。