朝ドラ『おむすび』主人公・米田結が目指す「栄養士」はいつから日本にいた? 世界初づくめだった日本の栄養学
NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』がスタートした。主人公は、元号が「平成」に変わった初日、1989年1月8日に生まれた主人公・米田結(演:橋本環奈)。本作は公式サイトで「平成元年生まれのヒロインが、栄養士として、人の心と未来を結んでいく“平成青春グラフィティ”」と紹介されており、結が将来栄養士となることが既に明かされている。さて、日本において「栄養士」という職はいつから存在するのだろうか? 今回は日本の栄養学のはじまりと栄養士誕生の歴史をご紹介する。 ■日本ではいつ栄養学・栄養士が生まれたのか? 日本に栄養学をもたらしたのは、ドイツ人軍医だったテオドール・エドアルト・ホフマンだったとされている。明治4年(1871)に来日したホフマンは帰国までの約4年間で、手術の手法を伝授するだけでなく、脚気の研究を行うなどしていた。 当初はあくまで医学の一部分として扱われていたこの分野を独立した「栄養学」として確立させたのが、佐伯 矩(さいきただす)である。佐伯は大学卒業後に北里柴三郎のもとで細菌学や毒素化学を学んだ後、アメリカ・イェール大学大学院に留学。海外における栄養問題に関する研究に触れた。 そして大正3年(1914)に東京で私立栄養研究所を開設し、これが世界初の栄養学に関する研究機関とされている。さらに3年後の大正6年(1917)には、これまた世界初の栄養学講習会を開いた。文部省に対してそれまで「営養」と表記されるのが一般的だったところを「栄養」に統一するよう提言したのも佐伯だった。 大正9年(1920)に内務省栄養研究所が設立された際には、初代所長に就任。大正10年(1921)には「栄養学会」を創設した。さらに、大正13年(1924)にはかつて自身が設立した栄養研究所跡を活用し、世界初の栄養士養成機関となる栄養学校(現在の佐伯栄養専門学校)を設立したのである。この後も国内外で栄養学の発展・普及に大きく貢献したことから、その献身と功績を讃えて、「栄養学の父」と称されるようになった。 ■栄養学が普及し「栄養士」という職が生まれていく 公益社団法人日本栄養士会によると、日本で栄養士が初めて誕生したのは大正15年(1926)3月のこと。佐伯が設立した栄養学校の第1回卒業生13名(後から遅れて入学した2名が加わる)が世に出た。ただし、この時は「栄養手」と呼ばれていたようである。 この後、昭和8年(1933)に、香川綾が夫である香川昇三と共に「家庭食養研究会」を創設し、これが昭和12年(1937)に「栄養と料理学園」、昭和15年(1940)に「女子栄養学園」に改称して栄養学の普及に貢献した。現在は女子栄養大学となっている。また、昭和14年(1939)には陸軍の外郭団体・糧友会が「食糧学校」を設立。こちらは現在の東京栄養食糧専門学校に繋がっている。 第二次世界大戦中の昭和20年(1945)4月13日、深刻な食糧難に起因する栄養不足を打開するため、栄養士規則、私立栄養士養成所指定規則が施行された。これにより、栄養士の地位と業務が明確に規定され、同時に養成施設として上記の学校を含む14校が指定された。原則、指定校卒業生は全員栄養士として認められていたという。 戦後、昭和22年(1947)12月29日に栄養士法が公布、翌年1月1日に施行された。「栄養士とは、都道府県知事の免許を受けて、栄養士の名称を用いて栄養の指導に従事することを業とする者をいう」と規定されて国家資格となったのと同時に、栄養士の養成も法制化されることになったのである。
歴史人編集部