花山天皇の女御から藤原実資の妻へ 多くの男性を虜にした婉子女王の魅力【光る君へ】
大河ドラマ『光る君へ』では、藤原伊周(演:三浦翔平)と隆家(演:竜星涼)兄弟が花山院に矢を射かけ、さらには東三条院詮子(演:吉田羊)を呪詛した疑いで流罪を言い渡される「長徳の変」が描かれている。そして、そんな朝廷の動乱を具に日記に書き写すのが、藤原実資(演:ロバート秋山)だ。じつは実資の2人目の妻・婉子女王はかつて花山天皇の女御だった。今回は多くの男性に愛された彼女の生涯をご紹介しよう。 ■安定した幸せを手にするも心の内には謎が多く残る 婉子女王(えんしじょおう)は為平親王と源高明の娘との間に生まれました。為平親王は源高明の婿であったために、東宮の位に就けなかった悲劇の人物と言われます。 弟の守平親王(後の円融天皇)が東宮となった2年後、舅である源高明が安和の変のため失脚し(安和の変については前回の源明子で少し触れました)、以後、政治的実権はないものの、皇族の中で重きをなし、寛弘7年(1010)59歳で一品式部卿宮として亡くなります。 さて婉子女王が生まれた天禄3年(972)、為平親王は22歳でした。為平親王はこの娘が14歳のとき、甥にあたる花山天皇の女御として入内させます。歴史物語『大鏡』師輔伝は「為平親王は、ご自身の不本意な運命をがっかりしてばかりもおられず、後年に娘を花山天皇の許に入内させ、ご本人もいつも参内された。「そこまでなさらないでも」と世間の人はひどくご非難申し上げたということだ」と記しています。この記述が正しいとすれば、為平親王には、おのれの悲劇的な運命を、娘を通して挽回したいという思いがあったように読めます。 一方で、同じく歴史物語『栄花物語』「花山たづぬる中納言」巻には、婉子女王が大変美しいと聞いた花山天皇が毎日恋文を寄越したとあります。為平親王も「これほどの人を家に置いておくのはもったいない」とその気になり、支度を整えて入内させたのでした。実際、花山天皇は婉子女王を大変気に入り、寵愛をほしいままにしたのでした。 しかし、寵愛は長くは続きませんでした。続いて入内した藤原朝光の娘・姫子(姚子とも)に花山天皇は夢中になり、さらに藤原為光の娘・忯子が入内すると、今度は姫子の寵愛は急速に衰え、忯子が帝の寵愛を独占しました。忯子の急死が例の花山天皇の出家に繫がるのです。 忯子の死後、婉子女王が花山天皇の許に召されることもありましたが、気分が優れぬよしを申し上げ、帝の許に上ることはありませんでした。本当に病気だったのかもしれませんが、あるいは婉子女王側のプライドかもしれません。 花山天皇の退位後、婉子女王は藤原実資の妻となりました。実資の最初の妻、藤原惟正の娘はすでに亡くなっていました。実資は有職故実の大家として知られ、書き記した日記『小右記』はこの時代を知る上での重要な史料となっています。実資は道長、さらに頼通の権勢の下、重きをなし、右大臣まで上り、その見識で世の尊崇を集めました。実資との結婚後の婉子女王については不明なことが多いのですが、長徳4年(998)に亡くなるまで、平穏な夫婦生活だったのではないでしょうか。 なお、婉子女王が実資に嫁ぐ前に、藤原為光の三男で、歌人として知られた道信も求愛していました。婉子女王は実資を選びました。そのことを知った道信が婉子に贈った歌が伝えられています。『大鏡』師輔伝は「今も人々の口に上る秀歌のようでございます」と述べています。 うれしきは いかばかりかは 思ふらむ 憂きは身にしむ 心地こそすれ (恋が成就したうれしさをあなたはどれほど感じていらっしゃることでしょうか。恋を失った私は辛さが身にしむような気分です) このように嘆かせ、秀歌を詠ませるほど、婉子女王は魅力的な女性だったのでしょう。
福家俊幸