記録の神様と呼ばれた男、千葉功「記録に生きる」その1/ベースボールマガジン
かつてのベースボールマガジンに『話のグラウンド』という企画があった。脇役の方々が登場する地味ながら興味深いものだ。今回は1965年4月号からパ・リーグ公式記録員、千葉功さんの回を紹介しよう。週刊ベースボールの『記録の手帳』の筆者で、山内以九士氏、宇佐美徹也氏とともに記録の神様と言われた方である。WEBで紹介するにはやや長い気がしたので、1時間置き3回に分け、紹介します。
数字を見るのはあきた?
よくひとに、「毎日数字ばかり見ていてあきませんか」と聞かれる。「とんでもない」と、きっぱり否定したいところだが、商売ともなると、ときには食傷気味にもなる。 でも心からつまらないと思ったことは一度もない。おそらく一生、数字のとりことなっているだろう。 私が野球の記録に興味を持ち始めたのは、戦後のプロ野球復活2年目の昭和22年(1947年)のことだ。もっともその年の春、はじめて後楽園に行ったときにメンバー表を見て、「なんでこんなに投手がいるのだろう」といって、友だちに笑われたほど。でも一人の投手が毎日投げ通すと思っていたご当人には、まじめな疑問だった。 それが夏にはもうスコアブックを手にして球場通いをするようになったのだから、かなり急速に記録の魅力に取りつかれたようだ。 球場に行かないときは、スコアブックを用意してラジオの前に座った。まだ民間放送の誕生前だったが、当時のNHK第二放送は連日のように、いまでいう変則ダブルの2試合を放送してくれた。 ところが終戦直後のこととてラジオがおんぼろだったうえ、放送電波の出力も小さかった。ダイヤルを慎重に、慎重に回して放送をキャッチしたものだ。 そのうちに市販のスコアブックでは満足できなくなってきた。そこで白紙のノートを買ってきて、自分で考えた体裁に線を引く。そろそろ“病こうこうに入る”となってきた。 しかし当時はスポーツ新聞といっても『日刊スポーツ』ただ一紙で、それもタブロイド判四頁だ。とうていいまのように連日打撃30傑や投手10傑が載せられているわけではなく、打撃10傑が関の山だった。 そこで自分で全選手の記録を毎日記入していこうと企てた。もちろん、用紙があるわけはないので、また白紙に克明に線を引く。しかしシーズンも半ばを越えていたので、この計画は実現ならず。いまとなってみると、あれだけの情熱で勉強に身を入れていたら、試験の前日になってあわてることもなかったろうとおかしくなってしまう。 その22年のことだった。当時、雨後のタケノコのように発刊された野球雑誌の一つ『ヒット』誌が、22年度の公式記録全部を付録につけたのである。小躍りして飛びついたのはいうまでもない。 たった1試合しか出ていない選手の成績もちゃんとある。何事にも“完全”を期すのがマニアの常なのだから、全選手の全記録というのは、野球の記録マニアには、大変な記録だった。 感激した。意味もないのに、ノートに書き写したりした。この気持ち、はたから見ればバカげていようが、世の記録マニアの方にはご理解していただけよう。
週刊ベースボール