闘莉王が傷だらけの引退秘話。「ベスト16壁を越えられそうだった日。PKを蹴れずにどれだけ眠れぬ夜を過ごしたか」
記録だけでなく記憶にも強烈な残像を刻んだ闘将は、鼻に痛々しい「勲章」を負ったまま現役に別れを告げた。ひな壇に座った田中マルクス闘莉王(38)が、思わず苦笑いを浮かべた。 「まさか最終戦で救急車に乗るとは思ってもいませんでした。顔だけで何針縫ったんだろう、と。最後だけは綺麗な顔で出てきたかったんですけど、自分らしい姿で(記者会見を)やってこいという、神様からのメッセージだと受け止めています」 2001シーズンに渋谷幕張高校からサンフレッチェ広島へ加入して19年目。全身から闘志をまき散らし、ディフェンダーながらJリーグの公式戦で通算104ゴールをあげた男は2003年10月に日本国籍を取得。ブラジル人のトゥーリオから闘莉王となり、日本代表の歴史にも確固たる軌跡を刻みながら、延べ6つ目の所属チームとなったJ2の京都サンガF.C.でスパイクを脱ぐ決意を固めた。 都内のホテルで1日に行われた引退会見。スーツにネクタイ姿で登壇した闘莉王は、鼻の手術を終えたばかりだった。敵地で柏レイソルと対峙した先月24日のJ2最終節。1-4で迎えた前半終了間際に自軍ゴール前で味方と激突。鼻から大量出血を起こし、ハーフタイムに病院へ搬送されていた。 勝てばJ1参入プレーオフへ進出できたサンガは、闘莉王を欠いた後半に大量9ゴールを追加される歴史的な大敗を喫し、8位でシーズンを終えた。結果的にレイソル戦が現役最後の一戦となった闘莉王は、今シーズン限りの引退を昨シーズン終盤の段階で決めていたと明かした。 「いままでにないディフェンダー像を意識してきたなかで、自分の心のなかで燃えている炎が少しでも消えかかりそうになれば年齢に関係なく引退しよう、とずっと決めていた。サッカーに対しては失礼がないように、と思い続けてきたなかで、去年の終わりごろにそれを感じたので」
誰にも告げないまま、最後と決めて臨んだ今シーズン。6月には右眼の手術を受けながらも闘莉王はサンガの勝利のために粉骨砕身し、アウェイ戦を相手チームのファンやサポーターへ感謝の気持ちを伝える場ともすることで情熱を繋ぎ止め、最後のエネルギーを絞り出してきた。 「一秒たりとも手を抜くことなく、気合を入れて全力でプレーしてきたことを誇りに思う。時には頭が割れても、肉離れしても、鼻が折れてもピッチに戻ろうとした。それを見てくれたからなのかどうかはわかりませんが、大勢の素晴らしい仲間に出会えたことも誇りに思っています」 レイソル戦でも応急処置にあたったチームドクターが、すぐに両手をクロスさせている。続行不可能と診断されながら、開始早々にすでに交代カードを切っていたチーム事情を考慮した闘莉王は「待ってくれ」と、ピッチへの帰還を必死に訴えていた。 サンフレッチェから水戸ホーリーホックをへて加入した浦和レッズで、2006シーズンのJ1初制覇に貢献。翌年のアジア制覇でも中心を担い、2010シーズンに加入した名古屋グランパスでは、入団会見で「リーグ優勝できなければ、ここに来た意味はない」と豪語。自分自身にプレッシャーをかけた。 宣言通りにグランパスをJ1初優勝に導いた2010シーズンを、闘莉王はレッズの悲願を成就させた2006シーズンとともに至福の瞬間と位置づける。2015シーズンで一度はグランパスを退団。母国ブラジルで無所属となりながらも、J2降格の危機に瀕した古巣のために2016年8月に復帰した。 残念ながらグランパスはJ2へ降格。引退勧告を拒否し、翌2017シーズンからは熱いラブコールを受けたサンガで、ホーリーホック時代以来、14年ぶりとなるJ2の戦いに身を投じた。波乱万丈に富んだ人生で最も印象に残る試合を問われた闘莉王は、代表として唯一出場したワールドカップとなる2010年の南アフリカ大会を勝ち抜いて臨んだ、パラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦をあげた。 「コマちゃん(駒野友一)がPKを外した瞬間が、すごく印象に残っていて。次のキッカーが自分だったこともあって、自分のところにまで回ってきたらどうだったんだろうな、と」