無名のニット工場「佐藤繊維」が、世界に認められるまで
肌寒くなると恋しくなるウール製品。触り心地がよく上品で、保温性も高いことから、愛用している人も多いだろう。 現在では特に珍しいということもなく、どこでも扱われている素材だが、日本にウール産業が普及し始めた当初は成功ばかりではなかった。そのようななかでも試行錯誤を繰り返しながら、4代にわたって繊維業を営んできたのが、山形県寒河江市にある佐藤繊維だ。 今回は、同社の4代目代表取締役を務める佐藤正樹さんにインタビューを実施。無名のニット工場から独自ブランドを持つに至るまでの話や、ウールの歴史について話を伺った。
ものづくりへの姿勢を、イタリアの展示会で気付かされた
ー佐藤繊維が創業した経緯を教えてください。 弊社は私の曽祖父が1932年に創業しましたが、紡績工場を作ったのは祖父です。きっかけは、日本の西の方に製糸業の会社があると聞いて、見学に行ったこと。実際に糸を作る現場を見て、感銘を受けたそうです。 ただ、もともと百姓だったこともあり、当時はお金がありませんでした。昔は銀行もお金を貸してくれなかったので、地元の方にお金を借りてのスタート。木を使ったり、古い織り機をバラバラにして組み立て直したりして、必要な機械を作りました。その頃に作った織り機は、今でも弊社の工場に置いてあります。
ー佐藤さんは、どのような経緯で佐藤繊維に携わるようになったのでしょうか。 私は、ずっとボクシングをやっていました。「世界チャンピオンになろう」とひたすら練習していて、日本ランキング2位までいきました。しかし、自分の才能に限界が見えたためボクシングを辞め、家業に携わる道へと進みました。幼少の頃から、「親の会社をいつか継がなくてはいけない」とは思っていたのです。 文化服装学院を卒業後は、東京でアパレル会社に就職しました。地元に戻ったのは、結婚してからです。私が戻ってきたときには、工場の規模がとても小さくなっている状態でしたね。 そのようななかで、父がニットの機械を7台買ってきました。弊社は機械が買える規模ではなかったので、びっくりしたのを覚えています。当時はハイゲージの機械がトレンドでしたが、購入したのはその一歩手前の古い機械でした。 毎日、夜遅くまでいろいろ試していたところ、7ゲージや12ゲージの糸を混ぜて編むと面白いものが出来上がってきて。そこから、5ゲージ、3ゲージとさらにゲージの低い機械を追加で買って、いろいろな太い糸と混ぜながら編んでいくようになりました。 ー規模が縮小したなかでも、いろいろな取り組みをしていたのですね。 流れが大きく変わったのは、今から30年ほど前。海外製品が日本へ大量に入ってくるようになったときです。原料である糸の品質は変わらないのに、中国で作ると人件費が日本の20分の1に抑えられますし、染料も安く済むのです。機械の高速化・大型化・自動化が求められましたが、すべてに対応するのは難しいことでした。 転機になったのは、イタリアの展示会に誘われたときのことです。当時、東京で手に取ったセーターがとても面白くて。商社に問い合わせたらイタリアの糸を使っていることが分かったので、その糸を取り寄せました。 そのときにイタリアの会社から、「展示会があるから見に来ない?」と声をかけてもらって。「弊社はイタリアに行くような会社じゃないし…」とは思ったのですが、工場を見に行ったら作り方が分かるので、「このようなチャンスは二度とない」と、思いきって行くことしました。 「技術を盗もう」という気持ちで工場見学に行ったのですが、工場の方が「これを触ってみろ」「軽いだろ」など、自分たちが作ったものについて熱く説明してくれて。それを聞きながら、私は胸が痛くなりました。「真似をしちゃいけない。やっぱり私たちの工場でものを生み出して、新しい文化を作らないといけない」と思ったからです。 当時はヨーロッパから情報を得て、それと同じものを作るというのが、日本のアパレル業界のスタンスでした。そこにオリジナリティなんていうものはなく、決まりきった形のセーターしかなかった。 私が目指しているのは、イタリアの工場みたいに「新しいトレンドを生み出す会社」ですね。そうならない限りは、いずれ会社がダメになると、そのときに思いましたから。 ーそこから、佐藤さんの挑戦が始まったんですね。 そうですね。ただ、当時の日本では、独自のスタイルで自分のブランドを作って発表すると、圧力をかけられたのです。そのため、日本ではなくニューヨークでスタートすることにしました。新しい機械もない状態だったので、ここでも古い機械を改造して使っていましたね。 実は、日本の糸作りにおいてきれいな糸が作られるようになったのは、120年ほど前からになります。それ以前は、羊の年齢や毛の長さで分けることもなく一緒くたに使用していました。長い毛も短い毛もすべて混ぜて糸を作っていたので、原料としてはかなり雑なものだったのです。 ただ、その頃に使われていた機械は、粗悪な原料を用いても作れるほど丁寧な造りをしていました。今の機械は高速化・低コストにすることを重視した構造なので、特殊なものが作れません。独自の商品を作るには、古い機械が一番理想的な構造になっています。自分で機械を改造すれば、糸作りがより面白くなるのです。 ー作ったものは、ニューヨークで販売を始めたのでしょうか。 東京の大きい展示会にも参加しましたよ。その頃は無名のニット工場だったので一番角にあるブースが割り当てられ、「誰が来るのかな?」という感じで。しかし、「サンプルを見てもらえれば、絶対に商品のよさを分かってもらえる」と思っていたので、自分たちでブースのデザインをして出展しました。 興味を持ってもらえるように工夫したおかげで、たくさんの人に来てもらえました。また、たくさんの会社から声をかけてもらえたので、その中から取り引きする会社を選んで日本で商売を始めました。 無事にスタートしたものの、私たちが作った商品が、私たちのブランド名で世に出ることはなかったので、夫婦で涙を流して悔しい思いもしましたね。 そのような状況を打開するきっかけになったのは、何気なく見ていたテレビ番組。「筆の職人が化粧用の筆を作り、アメリカで話題になった」という特集でした。そこで、東京の展示会にアメリカの会社の方も来ていたことを思い出して、連絡することにしたのです。 そのときに、「アメリカの展示会に出展しないか?」とお話をいただき、申し込みをしました。この展示会は、アメリカでブランドを展開するという決心をするきっかけになりましたね。ただ、チャンスは2回だけ。結果が出なければ諦めるという約束のうえで、チャレンジしました。 ーアメリカで行った展示会の反響は、いかがでしたか? 1回目の展示会では、結構お客さんが来たのです。ただ、その展示会は主に低価格のものを売る展示会だったので、「この価格帯の商品は、ニューヨークコレクションの時期に出さないとダメだよ」といろいろな人から言われてしまって。それがきっかけで、コレクションにはどのようにすれば出られるのかを調べ始めました。 当時の日本では、コレクションをやった人が誰もいなくて、パイプもなかったのです。ブランドとしてのストーリー性もないとダメでしたし、演出が重要でした。 そこで、弊社が100年近くにわたって4代で糸作りを行っていることを取り上げました。アメリカでは多くの方が1代で、その時代にあったビジネスを営みます。日本のように技術を伝承する人たちは、なかなかいません。だからこそ、弊社のストーリーをもとに手作りのブースをデザインしました。 そのおかげで、「何やら面白いものがあるぞ」とアメリカのテレビ局が来て取材をしてくれました。 イタリアの『ピッティ・イマージネ・フィラーティ』に出展した際も、見せ方を工夫したブースにしました。そこでも初めは地下の目立ちにくいブースだったのですが、次の年にはメインフロアになっていて。やはりプロが見ると、すぐに商品のよさが分かるのです。 日本人はただの服だと思っていますが、ウール産業はヨーロッパからしてみれば彼らの文化そのものなのです。
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