没後150年江藤新平 「佐賀の乱」イメージ払拭へ 佐賀で再評価の企画展
「佐賀の七賢人」の一人、江藤新平(1834~1874)の功績に光を当てる企画展「没後150年特別展 江藤新平‐日本の礎を築いた若き稀才の真に迫る‐」が、佐賀城本丸歴史館(佐賀市城内)で開催されている。不平士族の反乱とされる「佐賀の乱(佐賀戦争)」の首謀者として、無残に処刑された江藤の人生を再評価する狙いがある。 【写真】江藤新平の裁判の判決に関する所感を記した大久保利通の日記。「江藤醜体笑止ナリ」と書かれている 佐賀藩の下級士族出身の江藤は1872(明治5)年、明治政府の初代司法卿に38歳の若さで就いた。三権分立による国家制度をデザインしたほか、国民の権利保護のために近代的な裁判制度導入や民法編さんなどに尽力した。 その一方、73(明治6)年に征韓論を巡って政府が分裂した「明治六年政変」を機に、西郷隆盛らと政府中枢の参議を辞し、政府を離れた。翌74(明治7)年には不平士族による明治政府への反乱「佐賀の乱」が起き、その首謀者として処刑。40歳で生涯を閉じた。 特別展では、短く濃密だった江藤の人生を、幼少~青年期▽明治新政府での台頭▽司法卿~参議期▽下野~佐賀戦争期-の4部に分けて紹介。同館などが所蔵する文献や絵図など、関連資料66点を展示している。 ◇ ◇ 展示会場でまず目につくのが、現在の司法制度の礎となった数多くの功績だ。 70(明治3)年に江藤が記した「政治制度上申案箇条」は、三権分立の重要性を説いている。司法卿時代に定めた「司法職務定制」では、検事や代言人(弁護士)制度など現代に続く司法制度を明記し、人々の権利と平等を国家の制度として実質的に保障したことが分かる。民法編さんのためにまとめた会議録「民法口授」は、法務省法務図書館に所蔵されている資料で、特別に展示されている。 ただ、会場を進むと、そんな江藤が、厳しい人生の最期を迎えたことが伝わる。明治六年政変で大久保利通らと対立した江藤は、政府中枢の参議を辞して下野し、士族の不満を抑えるために帰郷。その後、士族の反乱を率いたとして処刑され、当時規定がなかったさらし首にされた。 大久保は、佐賀の乱鎮圧にあたり、伊藤博文に宛てた書簡で「一打を以叩き付不申候而ハ、朝権を示し候訳に至り兼候大事之機」と、佐賀を抑える強い意志を示していた。江藤の裁判の判決を聞いた大久保が「江藤醜体笑止ナリ」と記した日記も生々しく残る。 ◇ ◇ 89(明治22)年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦で、江藤と西郷の罪は消された。西郷は同年、失っていた官位を追贈されて社会的に名誉を回復したが、江藤は1916(大正5)年になってからだった。 特別展では、江藤の生涯を再評価する試みがなされている。江藤にはもともと蜂起の意思がなかったが、動きを警戒した明治政府が次々と軍隊を佐賀に送り込んだことから、「江藤は政府と戦わざるを得なかった」と解釈。「佐賀の乱」は不平士族による主体的な反乱ではないとして、より客観的に表現するために、展示の説明文では「佐賀戦争」と表記している。 佐賀城本丸歴史館の藤井祐介学芸員は「短い生涯で現代につながるような功績を多く成し遂げた。特別展を通して、江藤への見方が変わればうれしい」と語る。 ◆特別展は5月12日まで。観覧無料。一部展示資料は、会期中に入れ替えがある。問い合わせは、佐賀城本丸歴史館=0952(41)7550。