『ブルー きみは大丈夫』のテーマを深掘り イマジナリーフレンドという存在の本質的な追求
現実に対処する“助け”としてのイマジナリーフレンド
本作でより重要なのは、「イマジナリーフレンド」という存在が、本来どういうものなのかといった、本質的な追求である。主人公のビーが、友達のいないニューヨークで、一人孤独に思い悩んでいるときに現れたのが「IF」たちであるように、その姿は求められることで現れる。現実に対処する“助け”としてのイマジナリーフレンドである。 多くの人間には、話し相手が必要だ。とはいえ、本心をそのまま打ち明けられるような相手は、そうそういないものだ。家族や友達がいたとしても、なかなか全てを話せるものではない。そういう存在がいないときに、真に自分を理解してくれる架空のキャラクターとして、イマジナリーフレンドは生み出されることとなる。創造したのが子どもであれば、ユニークな見た目である場合もあるだろう。 とはいえ、そのような個人の頭の中の存在は、生み出した当人が忘れてしまえば、必然的に用済みのものとなってしまう。『インサイド・ヘッド』(2015年)で忘れかけられていたイマジナリーフレンド「ビンボン」がそうであったように、いつかは完全に消え去ってしまう運命を持つ、不遇で儚い存在だといえよう。 しかし、本作でフィオナ・ショウが演じるビーの祖母のように、自由にできる時間ができて、もう一度過去の自分を振り返るときに、不意にイマジナリーフレンドが近づいてくることがあるかもしれない。バレエ『スパルタカス』の楽曲に乗せて、彼女と「IF」が一緒に踊るシーンは、本作で最も美しい瞬間だ。ビーの祖母は若い時代、舞台で踊る不安に対抗するため、「IF」を必要としたのである。 また、ブルー(スティーヴ・カレル)が創造主に再会しようとする場面の描写も重要だ。ブルーは、キャラクターとしてそのまま思い出してもらうわけではないが、かつてブルーの力を得て困難を乗り越えた経験の記憶として再会を果たすのである。創造主は、現在の課題のなかで目的を叶えるための勇気を、自分の精神に深く浸透しているブルーから得ることになったのだ。 イマジナリーフレンドが、現実に対抗するために生み出されたものであり、かたちを変えて自分のいまの精神を支えているのだと思えば、姿かたちは忘れても、その存在は創造した人間にずっと寄り添って助けてくれているのかもしれない。それが本作の描いた、「IF」という存在なのだ。 かつてイマジナリーフレンドを生み出したそれぞれの個人にとって、それがじつは重要な意味を持つものであることは、『インサイド・ヘッド』でも「ビンボン」という存在を通して描かれた。しかし、それだけに彼の境遇があまりに悲しかったと思った観客は少なくなかったのではないか。「ピクサー作品の実写版」のような本作は、まさにそんな想いを優しく包み込むように、幸せなイマジナリーフレンドたちを、感謝とともに描いたのである。
小野寺系(k.onodera)