【山手線駅名ストーリー:恵比寿 JY21】これぞ100年ヒット商品!駅名となり、町の名前にもなった元祖プレミアムビール
大名の下屋敷がわずかに2軒あっただけの寒村
では、そもそも恵比寿はどういう地だったのか。歴史を振り返ってみたい。 駅が建った地が豊多摩郡渋谷村大字下渋谷だったのは前述の通りだが、ここにある「下渋谷」は、寛文年間(1661~1673)に成立した地名だ。 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』は、「地域犬牙(けんが)して四隣及び広域の町数は弁別しがたし」――つまり、村の境が犬の牙のように互いに入り組んでいて、下渋谷村の範囲がどこなのか、はっきりと識別できないと記している。 このことから、渋谷村から独立した一村ではあったものの、広さなどは曖昧な地区だったろうと、歴史家の大石学は分析している。(『駅名で読む江戸・東京』PHP新書) 続いて元禄年間(1688~1704)に入ると、幕府領・旗本領・寺社領の相給村落(あいきゅうそんらく / 一つの村落に複数の領主が割り当てられている)となり、石高は116石だったという(同書)。 これといって特徴のない農村だったせいか、武家屋敷は少なかったが、1704(宝永元)年には、赤穂藩森家の下屋敷が現在の恵比寿1丁目にあった。 この赤穂藩は、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった松の廊下事件(元禄14/1701年)によって改易されたのち、紆余曲折を経て森家が治めた藩だった。森家は本能寺の変で織田信長とともに討ち死にした森蘭丸の子孫である。 もう一つが、宇和島藩伊達家の下屋敷。現在の恵比寿3丁目にあった。この一帯の旧町名が「伊達町」であったことが、そのことを今に伝える。また恵比寿駅の東約700メートルには、伊達坂という坂道が今もある。 旗本領だったことから旗本屋敷も2軒あったといわれるものの、江戸城のお堀沿いの丸の内や紀尾井町など、大名屋敷が連なったエリアに比べ、明らかに閑散とした田園地帯だった。 恵比寿は郊外の寂れた農村のまま明治維新を迎え、近世になってから発展したエリアなのである。その成長に、サッポロビール本社と工場が果たした役割は、決して小さくなかった。