「組長、若頭3人暗殺事件から約40年逃亡の末に」 4代目山口組・竹中組長射殺犯はいかにして逃げ続けられたのか
長崎・松浦市議会議員への名誉毀損容疑
誰もが「消えた」と思っていた暴力団組長の名が急遽浮上している。1985年に4代目山口組の竹中正久組長らを射殺した疑いで指名手配されていた男が名誉毀損容疑で長崎県警に逮捕されていたことが分かったのだ。「山一抗争」の最終局面に登場した男が時効を経て、およそ40年にわたって逃げ続けられた理由についてレポートする。 【写真12枚】事件を伝える当時の「週刊新潮」と「FOCUS」の誌面。レトロな字体で「情報・備考・待ち伏せ・射殺 山口組ドンパチ劇の顛末」と伝えている
男の名は後藤栄治容疑者(75)。後藤容疑者は今年2月、長崎・松浦市議会議員の男性について「連日連夜はしゃいでいる」「わいせつ罪を犯している」などと虚偽の内容を書いた文書を配って名誉を傷つけた疑いが持たれている。後藤容疑者と市議とは知人関係にあっとされる。市議は今年2月末に死亡しているが、遺族が被害届を警察に提出していた。 その件を地元の長崎新聞は短くこう伝えている。 《29日正午過ぎ、松浦市志佐町の志佐川沿いで人が倒れていると通行人が110番。松浦署員が駆けつけたが、死亡が確認された》
竹中4代目射殺計画
市議は2018年1月に初当選し、2期目。22年2月から今年2月まで議長を務めていた。事件や事故にまきこまれた可能性は低く、突発的な病因もみとめられないとされる。 後藤容疑者が逮捕されたのは9月2日。彼が関わったとされる重大事件からは実に40年近く経っていた。その重大事件こそが「山一抗争」に絡む暗殺事件だ。 山口組が分裂し、一和会との抗争に発展した「山一抗争」抜きに日本のヤクザ抗争史は語ることができない。その経緯を簡単に紹介しておこう。 1984年、4代目トップを竹中組長と争っていた山広組の山本広組長が組織を離脱して一和会を立ち上げた。山口組と一和会の抗争が起こると、山広組の若頭で後藤組組長だった後藤栄治容疑者は竹中組長の暗殺計画に関与する。 そうして迎えた1985年1月。大阪・吹田のマンションに竹中組長の愛人が住んでいるとの情報を受け、暗殺計画が実行に移される。 竹中組長が中山勝正若頭と傘下の南組・南力組長を引き連れ、愛人のマンションに着いたところを実行犯が銃撃した。銃撃された3人は全員死亡した。