「死」の瞬間はこんな感じ…「死に目に会う」よりも、じつは「はるかに大事なこと」がある
死に目を重視することの弊害
いや、それでもやっぱり、死に目にだけは会いたいという人もいるかもしれません。 特に親の死に目や、連れ合いの死に目は自分が見送ってやりたい。その気持ちをどうしても捨てきれないという人もいるでしょう。 しかし、人の死はだれにも予測不能です。どんなことがあっても、必ず死に目に会いたいというのであれば、トイレに行く時間はもちろん、よそ見をすることさえ許されないくらい、ずっと相手の横についていなければなりません。下顎呼吸が合図になって、いよいよだというとき、ちょっとスマホに目をやった瞬間に、心臓が最後の鼓動を打つこともあるのですから。 その下顎呼吸も十分程度で終わるのなら、集中力ももつでしょうが、数時間から、場合によっては一昼夜以上続くこともありますから、それでも死に目を見届けたいというのなら、それこそ死にゆく人とのにらめっこ状態になります。病院や在宅の死の床に駆けつけた人々も、あまり近くない親戚などは、下顎呼吸が長引くと、徐々に悲しみも薄れ、途中から臨終を待ち望む気配になってきます。そうなると、亡くなる本人も死を急かされているようで、落ち着いて死ねません。 病院で最期を迎える場合は、本章の最初に書いたKさんの場合のように、家族を死に目に会わせるために、当人にとっては拷問に近い蘇生処置がなされる場合があります。これなどは死に目を重視する文化の最大の弊害と言えるでしょう。 もちろん、病院も悪気があってするわけではないので、あらかじめ家族から、患者が心肺停止になったときは、無益な蘇生処置は必要ありませんと伝えておけば、患者さんも安らかに死ねる可能性が高くなります(それでも運悪く、医療盲信の医者にかかったりすると、“儀式”でない本格的な蘇生処置をされたりしますが)。 死に目に会えるかどうかには、運の要素が大きいので、会えればそれに越したことはありませんが、会えなくてもいいという心の準備が必要だと思います。 それがないと、運悪く死に目に会えなかったときに、後々まで無用の悔いに苦しめられてしまいます。 私のある知人は、同性のパートナーと長年いっしょに暮らして、九十歳を超えた相手を自宅で看取るとき、たまたまほんのわずか席をはずした間に亡くなってしまったことを、人生最大の失態のように悔やんでいました。 それは致し方ないことだし、それまでの時間、十分に愛情を注いできたのだから、パートナーの女性もきっと満足していますよと慰めましたが、心は晴れないようでした。それも死に目に会うということを、固定観念のように重視してきたがゆえでしょう。 死に目に会う必要はないなどと、言うつもりはもちろんありません。ただ、死に目に会うことに執着してしまうと、さまざまな弊害があることを知ってほしいと思います。 さらに連載記事<突然、看護師が「遺体の肛門」に指を突っ込んで…人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」>では、人間が死んだ後の様子について詳しく解説しています。
久坂部 羊(作家)