「死」の瞬間はこんな感じ…「死に目に会う」よりも、じつは「はるかに大事なこと」がある
死に目より大事なもの
死に目より大事なものは、ご想像の通りそれまでの時間、すなわちふだんです。 実際の死に目は、その前に昏睡状態がありますから、本人にはまわりにだれがいるかなどということはわかりません。下顎呼吸になれば、完全に意識は失われていますから、周囲が「ありがとう」とか「愛してる」とか言っても、本人には伝わらないと思います。よく、「昏睡状態になっても、聴覚だけは最後まで残るから」などと言う人がいますが、脳波に特異的な変化が現れるわけでもないし、確かめようのないことなので、ほとんど気休めと考えたほうがいいでしょう。 いや、昏睡状態になってからでも、わたしの呼びかけにたしかにうなずいてくれたと主張する人もいるでしょうが、多くの場合、それは下顎呼吸を返事と見まちがえたのでしょう。私の父が下顎呼吸になったときも、私の妻が駆けつけたとき、「弘子が来たよ」と言うと、それまで一回ずつだった下顎呼吸が、二回続けて起こり、あたかも父が返事をしたように見えました。たまたまの生理的な反応だった可能性もありますが、もしかしたら、ほんとうにそれまで世話になった嫁の到着を理解したのかもしれません。そう思いたい気持ちは山々ですが、確証のない状況で、自分に都合よく解釈し、陶然とするのは好ましいとは思えません。そんな言説は信頼するに足りないからです。 第一、死ぬ間際の慌ただしいときになって、必死に声をかけるくらいなら、なぜもっとふつうに意思疎通ができるうちに言っておかないのか。生きている間に、十分、感謝の気持ちや愛情を伝えておけば、死という生き物にとって最悪の非常時に、改めて念を押す必要などないではありませんか。 伝わるか伝わらないか判然としないタイミングで、ことさら伝えようとするのは、明らかにそれまでの準備が足りないということでしょう。 少々、皮肉なもの言いになってしまいましたが、医者として何人もの患者さんの死に目に立ち会い、ときに異様なほど感情を乱すご家族などを見ると、そういう感慨を抱くこともままありました。 逆に、先に書いたYさんのご主人のように、大切な身内の死に目を冷静かつ厳かに見送ってあげたご家族もたくさんいました。その差はどこから来るのか。 それはやはりふだんの対応と、心の備えのちがいでしょう。その日は必ず訪れるのに、拒絶し、考えないようにし、“ふだん”という貴重な時間をいい加減にやりすごしているから、取り乱し、深い悲しみに苦しむのではないでしょうか。 大切な身内や自分が死ぬ日が、必ず来るという現実を受け入れるのは、とてもつらいことですが、早めにすませばすますほど、“今”という平穏な日々の大切さが身にしみ、無事であることのありがたみがよくわかります。 そうやって、ふだんから“今”を大事にし、大切な身内や友人に精いっぱいの対応をしていれば、いざとなったときにも慌てず、穏やかに運命を受け入れられるのではないでしょうか。