袴田事件と共に学ぶ。アメリカの冤罪との闘い│映画「黒い司法 0%からの奇跡」
殺人犯に仕立て上げられていった背景には?
テーマもメッセージも最初から明快なこのドラマが見る人を惹きつけるのは、無駄のないキビキビした演出と俳優の力によるところが大きい。ドラマの最後に紹介されている、ブライアン・スティーブンソンやウォルター・マクシミリアンら当時の本人たちの写真からも、ドラマでのキャスティングの巧さと俳優陣の力量を感じさせる。 作中では、裁判書類を読み込んだブライアンが、ウォルターに不利な証拠は別件で逮捕され裁判中の囚人・マイヤーズの証言しかないことに疑念を持ち、担当の地方検事チャップマンにねじ込むが、けんもほろろの扱いを受ける。 次にウォルターの家族と会ったブライアンは、彼には白人女性と浮気したという弱みがあったこと、彼の当日のアリバイを知っている黒人たちの証言がまったく採用されていないこと、前の弁護士は何の仕事もしなかったこと、その他有力な情報を聞き出す。 ウォルターとエバは口の重い町の人々に熱心に聞き込みをし、事務所を立ち上げて本格的に活動していくが、地元警察からは常に見張られ、正体不明の脅迫さえ受けるようになる。 マイヤーズの供述を録音したテープを探し当て、収監中の彼をやっとのことで口説き落とした結果、ようやく再審請求に漕ぎ着けるまでが最初の山場である。 ■「目の上のタンコブ」な弁護士 ウォルターが殺人犯に仕立て上げられたて背景にあるのは、紛れもなく黒人差別だ。町の人々を震え上がらせた殺人事件の犯人を、微罪のある黒人に体よく押し付けるために仕組まれた司法取引。黒人が被告ゆえに金だけ巻き上げて逃げた、前の弁護士。重大な疑問を投じられても、捜査を見直すなどハナから念頭にない検事。言動の節々に黒人への偏見が見られる警察や死刑囚監房の職員たち。
「本当に弁護士か?」
人々の冷たい眼差しは当然、ウォルターの再審を目指してわざわざ遠方からやってきたブライアンにも注がれる。優秀で正義感に燃える弁護士は、町の白人たちにとっては不幸を蒸し返す災いの種であり、警察、検察にとっては目の上のタンコブだ。そもそも彼がハーバート卒の若いエリート黒人であること自体、彼らにとっては大きな”不快要素”なのだ。 そのことはまず、ウォルターが収監されている死刑囚監房をブライアンが初めて訪れる場面で描かれる。「本当に弁護士か?」と訝ってみせる若い白人の職員は、ブライアンの訪問があらかじめ許可されていたにもかかわらず、わざわざ「身体検査」と称して裸になれと命じる。人権を無視したあまりの対応に、屈辱感を滲ませながら黙って従うブライアン。 さらに、捜査や判決への疑義を述べるブライアンを、検事チャップマンが上から目線であしらった後の場面。怒りを抑えて帰ろうとするブライアンに、チャップマンが「せっかく来たんだから『アラバマ物語』の博物館に寄ったらいい」などと”助言”するのが何とも皮肉だ。 『アラバマ物語』(1962)は、1930年代の南部で無実の罪を着せられた黒人を救うため、激しい人種差別と闘った弁護士の姿を子供の目線から描いた名作である。いまだ人種差別の色濃く残る町で杜撰な捜査を行い、黒人を殺人犯だと断じた検事には、恥ずかしくて口に出来ないタイトルのはずだが、本人はそれに気づいていない。 ■アメリカ社会が生み出し見捨てた死刑囚 このような監房の若い職員やチャップマンが、最終的に当初とは異なる態度を見せる後半から終盤のシーンは、見どころの一つだ。 ドラマはウォルターの再審の行方を中心に展開されるが、サイドストーリーとして、同じ死刑囚監房に収監されているハーブという黒人にも焦点を当てている。 ベトナム戦争の帰還兵である彼は精神を病んでいたが軍から治療を受けさせてもらえず、心神耗弱の状態で人を死なせてしまった。日々激しい後悔と恐怖のため悪夢にうなされるハーブを、ウォルターともう一人の死刑囚レイは壁越しに励ましている。ブライアンはハーブの死刑執行差し止めを求めるが却下され、とうとうその日はやって来る。